わいるどわ~るど 

異文化好き好奇心人間の世界考察ブログ

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タイ人の時間感覚

どうでもいいことを考えるのをやめようと思いつつ、どうにも止まらないビアンカです。

そして、一度「何故?」と気になりだすと、わかるまでしつっこい・・・

その私が、かれこれ15年以上も気になっていること。
「タイ人の時間感覚は、日本人とは大幅に違うのだろうか?」
ほんとにどうでもよくて、スミマセン。

一番最初にタイへ行ったとき、私は6週間もの間、バンコクその他をうろついていました。特に、タマサート大学には頻繁に出入りしていたので(何のために?と言われても困るのですが、楽しかったので・・・)、学生友達がたくさんできたんです。

日本へ帰って、彼らと時々手紙のやりとりをしていました。そして、約一年後、またタイへ遊びに行くことにしたのですが、私は誰にも前もってそのことを知らせませんでした。突然みんなの前に現われて驚かそうと思ったから。

バンコクに着いた翌朝、みんなびっくりするだろうな~とワクワクしながら、キャンパスへ出かけていきました。門を入って、構内のアイスクリームの屋台が出ているあたりを歩いていたら、突然後ろから、「サワディー クラップ」と声をかけられたので振り向くと、友達のゴーが立っていました。不意をつかれたので、
「わわわっ。ゴー!!あ~、びっくりした~」と叫ぶと、
「何でびっくりするの」と訝しげな顔。
「だって・・・まさかここで会うとは思わなかったから」
「ここで会うとは思わないって、自分がキャンパスに来たんじゃないか」
そりゃまあ、そうです。

でもね、私としては久しぶりの再会なのだから、
「おおーっ、ビアンカ!ひっさしぶりぃ」くらいの反応があるかと思ったんですよね。なんで驚かないのだろう
「で、今どこに行くの?」
「ワラコーン先生のところだよ」
前回、経済学部のワラコーン教授にいろいろお世話になったので、挨拶に行こうと思っていたんですね。

ゴーといったん別れて、校舎の中に入って行きました。エレベーターに乗り、教員室へ。中に入って、「ワラコーン先生はいらっしゃいますか」と訊ねると、「奥の部屋です」と言われたので、そのまま進んでいきました。部屋のドアは開けっ放しになっていて、先生は机で書きものをされていました。

「ワラコーン先生、おはようございます」
私がそう言うと、先生は顔を上げて、私を見るなり、
「おはよう、ビアンカ。ハウ・アー・ユー?」
先生は、全然驚いていません。
「やあ、ビアンカ君じゃないか!どうしたんだね、急に?」なんて言わないのです。毎週会っているかのようです。
なんで驚かないの?

しばらく先生とお話した後、キャンパスを出て、一年前に長期お世話になった宿まで歩いて行きました。その時は別のところに泊まっていたんですが、懐かしい顔をちょっと見てこようと思って。おばさん、私のこと憶えてるかな~。

宿の前の道路に椅子を出して、おばさんはヒマそうに座っていました。ああ、いたいた。
「こんにちはーっ」
しかし、おばさんは私の顔を見るなり、こう言った。
「ご飯、もう食べたかい?」

ズルッ。

みんな、なんでなんで驚かないのー!?

それから誰に会ってもずっとこんな調子で、「突然行ってみんなをビックリさせる」という私の計画は失敗に終わったのでした。

どうしてなんでしょう?単にたまたまそうだっただけなのでしょうか。「驚く」という表現はタイ語にもあるようですから、「タイ人は驚かない」ということもなさそうですし・・・

仮説を立てて見ました。

『タイは熱帯の国なので、日本人が四季の流れで時間の経過を掴むようにはいかず、どのくらい時間が経ったかをあまり意識しない。一週間も一ヶ月も一年も、タイ人にとってはそれほど大きな差はない。』

どうかな?この説明は。どこかにそんなことが書いていないだろうかと思って、タイ文化に関する本をいろいろ読んでみたのですが、関係のありそうな記述には今のところぶつかっていません。

あー、どうなんだろう?




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  1. 2005/10/31(月) 19:26:05|
  2. 異文化
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考え過ぎちゃう

人間誰しも、良いところと悪いところとあって、完璧な人間などいない。私にも、良いところ悪いところいろいろあって、総合的には「まぁまぁ」かなあ~なんて、わりと自分をポジティヴに受け止めている私ですが、ときどき自分の性格のある部分が恨めしいことがあります。

それは・・・「考えすぎちゃう」こと。

とにかく四六時中、考えています。あれはどういう意味だ?何の意義があるんだ?ああいうことになっているけど、実は違うんじゃないか?考え出すと、止まらない。

たいていは、本当にくだらない、どーでもいいことを考えているんです。それほど暇なわけでもないのに、いつもつまらぬことばっかり考えて、日常生活に支障をきたしてる。

どうにかならないのか、この癖?と自分でも思うけど、放って置くと、頭の中は「くだらぬ思考」で一杯、足の踏み場もなくなります。

よく友達にも「ビアンカは考えすぎ。そういうもんだと思えば人生楽だよ」って言われるけど、どーしても考えずにはいられないんですね。

「これは、ああです」と人に言われても、「○○さんが言うのなら、そうなのだろう」とは簡単に思えなくて、その人の思考の道筋を自分で辿れないと気持ちが悪い。

物事にはいろんな考え方があるもので、どれか一つが正しいわけではないと思っているし、「あの人はこれこれこう考えてこういう結論を出した」と理解できればスッキリとして、「なるほど、そういう考えもあるね」と受け入れることができるんですが・・・・

理解できないっていうのは、私にはホントに辛い

困った性格です~

かなりズボラでお気楽なところもある私なんですが、「考えずにやり過ごす」ことができないのは、苦しいです。

なんでこんなことを書いているかというと、ここのところ、子どもの保育園の育児方針のことで悶々としていました。
今まで理解して納得していたはずのことが、突然わからなくなって。「こっちの道だ」と思っていた道が、いきなり工事中で迂回道路を通らなければならなくなったというか。

なんでそこまで深く考える?フィーリングでやればいいのよ。フィーリングで」と言われそうで、自分でもそう思うんだけど、頭の中が工事中だとダメなんです。

はああ~。

園長、お願い。私の考えていることを聞いて!!

聞いてもらいました。昨日はお休みの日でしたが、園長は貴重な時間を割いてくれました。他にも子育ての悩みのあるお母さん二人が同席してくれて、話し合うこと3時間強。

「そうか~。ビアンカさんはそういう風に考えたんだね」
と、こちらの思考を理解してもらって、逆に園長の思考も辿ることができて、スッキリしました。

「まったく、面倒な親だ・・・」と思われたに違いありませんが、話し合いの機会を作ってくれたことに、感謝します。

考え癖をどうにかする良い方法、どなたか教えてください~。




  1. 2005/10/31(月) 12:18:24|
  2. 日常
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勉強させられる!?

昨日、息子が学校から帰ってきて、こう言いました。

「今日、直人くんと遊ぶ約束しようとしたらね、勉強しなきゃならないからダメって言ったんだよ!」

「ああ、そうなの」と答えると、
「勉強しなきゃならないから、って言ったんだよっ。勉強するからとか、勉強したいからじゃないんだよ!!みんなの家では、親が子どもに勉強をさせるんだねー」
真面目に驚いている様子です。

そういえば、前にも似たようなことありました。
「みんなの家では、テストで○点以上じゃないと、怒られるんだってーっ!」
私は息子に、「勉強しなさい」と言わないし、テストの点が悪くても叱ったことがないので、息子は「親とはそういうもんだ」と思いこんでいたようで、必ずしもそうではないと知って、新鮮な驚きを感じたようです。

テストの点について何も言わない理由は、テストはそもそもどれだけ知識が身についたかを調べるためのもので、調べて足りない部分があるとわかれば、それを補えばいいので、点数について子どもに怒る必要性はないと思うから。

「勉強しなさい」と言わない理由は、私自身がプレッシャーをかけられるのが大嫌いで、「やれ」と言われるとやりたくない性格だから。息子にも、私のこの天邪鬼な性格がおそらく受け継がれているという前提のもと、やる気をそぐようなことは極力言わないことにしています。

うちのお母さんって、勉強しなくても全然怒らないよね~。やっぱり人生、勉強だけじゃないもんね。勉強なんて、学校でやれば充分だよねー。うん
勝手にそう解釈して、納得している様子です。

そうではありませんよ。わが息子よ。お母さんは「勉強なんてどうでもよい。元気に育ってさえくれたら」とは思っていません。

実は毎日毎日、家で勉強させられていることに彼は気づいていない。

工作で物理の勉強。料理で化学の勉強。ハイキングで生物や地学の勉強。日常の会話で論理力を鍛える訓練。これでも母は、いろいろ考えて勉強させているつもりなんだけど。

息子はここのところ、三日連続で「ベッコウ飴作り」にチャレンジしていました。一日目は温度が低すぎてベタベタになり、失敗。二日目は温度が高すぎて焦げた。三日目の昨日は大成功で、透明なべっ甲色の美味しそうな飴が出来上がり、家族にふるまってくれました。

「この実験をしなさい!」と言うと、しないだろうから、「こういうの自分で作れるんだね~。面白そうだね~っ」と言って、作り方の資料とかをテーブルの上にさりげなく置いておくと、9割方は食らいつきます。

おととい、私は本屋で「マッチ棒クイズ」の本を買って来ました。テーブルにマッチを並べ、「う~ん」と唸って考えていると、こちらの思惑通り、息子は飛んできて、
「お母さん、何してるの?」
「一本動かして、等式を作れって言うんだよね・・・」
「わあーっ。おもしろそう!貸して、貸してっ!」
息子は私から本を取り上げ、夢中になってマッチ棒クイズに取り組み始めました。

しめしめ・・・

自分でも結構、「私って教育ママかね?」って思っているんですよね。

でも、息子はな~んにも知りません。
  1. 2005/10/28(金) 09:46:56|
  2. 日常
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記念撮影

今週の月曜日、娘を連れて写真館へ行きました。七五三の記念撮影のためです。

振袖だけ着せるつもりでしたが、スタジオに下がっていたドレスの数々を「じぃぃーっ」と見ているので、しぶしぶドレスも着せることになりました。この衣装選びがまた難航して・・・

「着たくないドレスを無理に着せられた」
と、後々まで恨まれても嫌なので、本人に選ばせてやろうと思いましたが、私が「それだけはやめて」と思うようなものばかり指差します。お金がかかることだし、親にも写真を送るつもりなので、あまりチンケなのはちょっと・・・と焦りました。

ああでもない、こうでもないの末、シンプルな赤いドレスに決めてくれて、一安心。美容師さんに髪の毛をセットしてもらいます。髪はアップにして、上のほうを膨らませ、裾にはカールの着け毛を。

ふうん、そこまで凝るものなんだー、と思って見ていたら、頭のてっぺんにティアラまでのせたので、ちょっとびっくり。

ティ、ティアラ~!?仮装パーティじゃないんだけど・・・
ただの個人の記念写真が、随分仰々しいことになったわ。

しかし、娘は鏡の中の自分にウットリ。

「本物のお姫様みたーい」
と、美容士さんにおだてられて、その気になってる。

着付けが終わり、いざ写真撮影。スタジオに入ったら、ますます仰々しいものがいろいろ目につきました。なんというか、演出小物が凄いんですね。和装用のセットはプラスチックの竹薮や、おもちゃのお琴に赤い毛氈。洋装用には、白いおもちゃのグランドピアノに白雪姫の小人のお家。

うーん。こういうものなんでしょうか・・・

造花を持たされたり、プラスチックの果物を頬に当てさせられたりと、いろいろな演出でカシャカシャとシャッターが切られました。後で、モニターから好きな写真を選んで注文するのですが、さすがにちょっと白雪姫シリーズは遠慮しておきました。

そこで、思い出したのがドイツの写真館に飾っている写真の数々です。これもまた別の意味で凄いものがあった・・・
演出小物が不自然というのはあんまりないんですが、被写体のポーズが大胆なんですよね。

例えば結婚式の写真。日本のようにポーズの雛形が決まっているのではなくて(どの新郎新婦も全く同じポーズで写っていますよね)、そのカップルによっていろいろなのですが、やたらとイチャイチャしている姿が目につきます。

一番驚いた結婚式写真は、近所の写真屋のウィンドーに飾ってあったものなのですが、純白のドレスを着た花嫁が両手を床についてのけぞり、ドレスは膝上までめくれあがって、花婿がその太股にキスをしている・・・というセクシーショット。

「こういうの撮るか・・・・」と呆れて見ていました。

友達の結婚アルバムにも、友達がドレスを腿まで引っ張りあげて、ガーターベルトを見せているものがあって、「一体、何のつもり?これは」と驚いて訊ねると、「ドイツではね、花嫁が何かブルーの物を身につけると幸せになれるという言い伝えがあるから、ブルーのガーターベルトにしたの。これはその証拠写真♪」と嬉しそうに。

うーうーうー。理解に苦しむぞ。

日本の写真館では演出小物にはやたらと凝るけど、ポーズは極めて真面目。ドイツの写真館では、ポーズが大胆というかわざとらしいというか・・・

というような印象を持ちましたが、どうでしょうね。



  1. 2005/10/27(木) 21:56:57|
  2. 異文化
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逆上がりの結末

逆上がりにまつわる我が家の親子ドラマにお付き合い下さった方に、運動会は結局どのようなことになったのかをご報告します。

「逆上がりを諦めろ」とは娘に言いませんでしたが、逆上がりのことばかり考えないようにと思って、別の話題など振って本番までの時間を過ごしました。

今朝、起きると、夜半の大雨もすっかり上がり、空は朝焼け。娘は機嫌よく起きてきて、服を着、朝ごはんを食べました。リラックスしているように見えました。

運動会が始まり、プログラムの最初の方に、縄跳びを飛びながらトラックを一周するというのがありました。一週間ほど前に練習風景を見たときには、数回飛ぶと引っかかり、また数回飛んでは・・・という様子だったのが、少しの乱れもなく軽々と飛んでいたので驚きました。

そして問題の「逆上がり」を含む、障害物競技。(競うわけではないので競技という言い方はそぐいませんが、他になんと呼べばいいのかな?)

保母さんは子ども達に、「できるまでやりなさい」とも「できなければ、やらなくてもいい」とも言いません。ただ、「がんばってね」と言うだけです。やるかやらないかは本人次第です。

もし、できるまでチャレンジすることを選んだ子がいたら、本人が自分の意思で諦めるまで、大人は何も言わないという暗黙の了解があります。

「次の子がいるから、そろそろこの辺で・・・」というのはなし。時間がかかっても静かに見守ることになっています。

ですから、本番の今日は、私も娘の好きにさせるつもりでした。

まず最初に、走って行って跳び箱を飛び、次に鉄棒で逆上がりをし、それから机を四段重ねた上に登ってそこから飛び降り、最後に、はめ板をよじ登って飛び降ります。

一人がスタートし、時間差で次の子が出て行きますが、途中で抜いても構いません。娘の出番は一番最後のようです。

それぞれ得意なものと苦手なものがあるので、その子によって各種目にかける時間はまちまちでしたが、逆上がりはどの子も一回できれいにクリアして行きました。

さあ、娘はどうするのだろう。鉄棒はやらずに通り過ぎるのか、それとも挑戦するのか。体力の限界まで宙を蹴り続けるのか、それとも早々にギブアップするのか。あるいは突っ伏して泣いてしまう!?

娘の前の番の子が出発しました。最近、新しく保育園に入って来て、まだいろいろなことに慣れていない女の子です。練習のときも、困っている場面があった子でした。

彼女は跳び箱は飛びましたが、鉄棒のところへ行くと、棒を掴んだまま、どうしたものかと思案しているようです。

そこへ、娘がスタート。跳び箱はお尻をちょっと擦っていましたが、なんとか飛んだ。そして鉄棒へ。

鉄棒は二台あったので、当然、空いている方へ行くのだと思ったのですが・・・

ゆりこはお友達が立っている鉄棒に向かって走って行きました。そして、お友達の背中に自分の背中をあて、ポンッと背中でお友達を押しました。

押された弾みで、お友達の腰は高く上がり、クルッときれいなカーブを描きました。棒を回り、ストンと着地。

すると、今度は娘が棒を握り、お友達がサッと背中をあてます。

くるりっ。ストン。

そして、二人で嬉しそうに次の障害物へと走って行きました。

思いがけない展開に、「こういうのもあったんだ」と驚き、そして心が軽くなった。

娘の顔も晴れやかでした。

運動会が終わりに近づく頃、子どもチームVS母親チームVS父親チームの縄跳びリレーがあり、月齢の一番高い娘はアンカーでした。それに合わせて私も夫もアンカー。

縄跳びに限っては、大人よりも子どもの方がずっと器用なため、親も手加減ナシで挑むのですが、娘の番に来る前に、すでに子どもチームがリードしていました。娘が出発して、まもなく私が出発、かなり遅れて夫が出発。

娘が最初にゴールインし、子どもチームが勝ちました。(これだけは、勝ち負けあり)

娘が跳んでいる間、私もトラックの反対側を跳んでいたので、娘の様子を見ることができなかったのですが、後で人に聞いた話では、
「ゆりこは、物凄く頑張って、縄が見えないほど早く跳んでいた」そうです。

元気いっぱいで、運動会を楽しむことができたようです。

お友達も、みんな素敵でした。笑顔が輝いていました。


みなさん、応援ありがとうございました。



  1. 2005/10/23(日) 22:28:25|
  2. 日常
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明日、運動会です

お天気がはっきりしませんが、明日、娘の運動会当日です。逆上がりの練習の一件ではアドバイスや励ましコメントをありがとうございました。

あの後も私の中では大きな葛藤があって、頂いたコメントになかなかお返事することができませんでした。というのは、励まして頂いたにも係わらず、結局、私は娘の練習にブレーキをかけてしまったんです。

昨日も今日も、早起きして練習に行きたがったのですが、
「お母さんとお絵描きして遊ぼう」と誘って、一緒に静かな時間を過ごしてから、遅刻して園に行かせました。少しでも「チャレンジタイム」を短縮するためと、気持ちを落ち着かせるためです。

「せっかく本人がやる気なのに何故?」と保母さんにも不思議がられましたが、なんというか、母親の勘で、「これ以上はいけない」と思ったんです。

保育園生活は非常にバラエティに富んでいて、ありとあらゆる活動が用意されています。やらなければいけない、というのではなくて、子ども一人一人それぞれ違うので、どんな子も必ずどこかで自分を発揮できるようにという配慮です。そして、子供達が取り組む課題は、5~6歳の子どもにはちょっとハードルが高いかなというレベルのものが多いです。これも、チャレンジして達成できたときの喜びを味あわせてやりたい、自信をつけさせてやりたいという配慮です。

スポーツで自分を発揮できる子もいれば、お絵描きが大好きな子、泥遊びで満足できる子、いろいろいて良い。そういうのって素敵だな~と思っていたんですが、娘の場合、これがどうも裏目に出てしまったようでした。

ほどほどに、ということができないものですから。すべての課題に全力で向かっていってしまいます。お友達の応援をするときには心の底から応援し、ケンカするときにもありったけの思いをぶつけます。適当に自分をごまかしたり、力を抜いたりできなくて、いつも真剣そのものなんです。

だからやっぱり疲れるのでしょう。しっかりしているように見えて、かなりの甘えん坊です。
「保育園行きたくな~い。お母さんとおうちにいる~」
ってことが頻繁で、保育園で何か嫌なことがあるのかと心配すると、そうではなく、園では実に生き生きと楽しそうにしているらしい。とにかくいつもパワー全開なのです。

ひたむきなのは娘の良いところではあるのですが、頑張れる場面があると、とことん頑張ってしまう。自分の限界を超えてもやってしまう。その緊張を、家で私に甘えることでほぐしている気がするのですが、今回は甘えることすらできないくらい張り詰めた状態になっていたようです。

でも、私がそれにすぐに気づかなくて、なんとも言えない不安を感じながらも娘を突き進ませてしまった感じです。

逆上がりは娘にはハードル高すぎでした。他の部分で、もうすでに極限まで頑張っています。緊張を解いてやりたい。

そんなことを悶々と考えていた二日間でした。

今日、保育園に迎えに行き、いったんお布団を車に運ぼうと一人で歩いていると、担任の保母さんが裸足で追いかけて来ました。昨日、園長に手紙を出して相談したので、びっくりしたみたいです。

家での様子をお話して、娘に関する悩みは「娘がなにかをしないこと」ではなく、「し過ぎること」だとお話しました。

「言われてみればそうですね。わかりました。じゃ、明日は運動会だからって気合を入れずに、普段と同じようにのんびりとした気持ちで来てくださいね」

そう言ってもらえて、すごーーーーくホッとしました。


明日が、娘にとって楽しい一日であればと思います。
  1. 2005/10/22(土) 14:54:31|
  2. 日常
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逆上がり

不眠とは無縁の私ですが、今夜はなんだか眠れないので、記事連続アップです。

今度の日曜日は、娘の運動会です。

年長児の彼女は、縄跳び、跳び箱、鉄棒など、多くの種目に出ます。これは「競技」ではありません。「強制」でもありません。本人がやりたければやる、順位はつかない。気楽といえば気楽なスタイルです。

でも、娘には決して気楽なものではないのです。

私に似て、運動神経が鈍く、気力だけは人一倍だけど、体力もあまりない子です。お友達が次々と跳び箱や鉄棒ができるようになる中で、娘はなかなか思うようにできるようになりません。

それでも全然、構わないと思っていました。運動が苦手でも、娘には娘の得意なことがありますし、たとえ得意なことがなかったとしても、それでもいいのです。本人は運動ができないことに劣等感を持っていないようですから、それだけでも幸いだと思います。

ところが、周りに触発されたのか、おととい急に、
「どうしても逆上がりができるようになりたい」と言い出しました。
「保育園の時間は順番待ちでなかなか練習できないから、朝早くに保育園へ行って一人で練習したい」
そう言うのです。

そうか、やる気になったのか。それはいいことだ。応援してやらねば。そう思い、昨日は朝7時に保育園へ連れて行き、園バスが到着するまでの間、練習につきあいました。娘は目をギラギラさせて、取り憑かれたように、必死に鉄棒につかまり、足を蹴り上げていました。

しかし、なかなかできません。他の子たちが来たので、私は家に帰りました。

今朝も娘は6時前に目を覚ますと、「鉄棒!」と叫んでベッドから飛び出しました。今度は夫に付き添われて練習に行きました。夕方、私が迎えに行くと、まだ鉄棒にぶら下がっています。逆上がりができるようには、なっていません。園長や保母さんに励まされ、応援され、歯を食いしばって挑戦しています。
「ゆりこ、朝からずっと頑張っているんだよ。粘り強いね。すごいね」
褒めて頂きました。1時間ほど待ったところで、やっと帰る気になったようで、車に乗り込みました。

家に着いて、娘の顔を見ると、唇の横にヘルペスのようなものができています。
「お母さん、痛い」
疲れているのだ、と思いました。早く寝かさなくては、体が持たないかもしれない。慌てて食事をさせ、ベッドに連れて行きます。

でも、寝ないのです。体は極限まで疲れているはずなのに、頭は興奮して、「鉄棒、鉄棒」と呪文のように唱えています。やっと寝付いたのは2時間後でした。

やっても、やってもできない。私にも記憶があります。どんなに頑張っているつもりでも、私には運動という運動のすべてができませんでした。
「お前はもう諦めろ」
私は、体育の先生にそう言われて、早々に運動を諦めてしまいました。悲しかったけど、何が何でも頑張ろうという気にはなれなかった。別にいいやと投げやりな気持ちでした。

でも、娘は必死で頑張っている。自分にはいつかできると信じて、一生懸命前向きに努力している。

強いな。えらいな。感心します。

でも、私の心には声にならないもう一つの叫びがあります。

「そんなに頑張らなくていいよ。できなくたっていいんだよ。他の子ができたって、関係ないんだよ。もうやめよう」

やっと寝付いた娘の背中に、私の涙が落ちました。

明日も、娘は鉄棒に向かうのでしょうか。無理はさせたくない。

運動会まで、あと2日。ただじっと静かに見守り通せるのか・・・自信がありません。


  1. 2005/10/21(金) 01:05:06|
  2. 日常
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ニュアンスの翻訳

私の本職は一応、翻訳業ですが、(いちおうとするのは、関係ないことにいろいろ手を出して、メインのことをサボりがちなもので・・・)たまに通訳もやります。

でも通訳はあまり向いていません。何しろ頭の回転が速くないので、スッスッと言葉が出てこないということもあるし、通訳の仕事のときには、「情報を別の言語に変換する」という作業の他に、「ニコニコする」かつ「ピシッとする」、そしてクライアントに気を遣うなど、同時にいろいろやらなくてはならなくて、トロイ私には荷が重いのです。

翻訳だと、何を着て仕事しようと、しかめっ面でキーボード叩こうと、全然構いませんし、
「あ~、わっかんないなーっ。ちょっと休憩~」
と、コーヒーを啜りながら、ブログ回覧してても怒られない。納期さえ守れば、誰にも何も文句言われません。

ですから、「通訳が得意」という人は私の憧れ。ニュースで首脳会談の様子が映り、首脳の後ろにしゃがみこんで黒子のようにお仕事をしている通訳者の姿を発見すると、
「あんなところで仕事ができるなんてすごいなあ」とか、
「椅子にくらい座らせてもらえないのかしら。あれじゃ、疲れるでしょ」とか、勝手な感想を抱きます。

国と国の間には、ご存知のようにいろんな摩擦があります。様々な「意見の相違」や「事実認識のギャップ」が存在するのでしょうが、私には難しいことはよくわかりません。

しかし、「言語変換者」のはしくれとして、いつも思うことは・・・・

どれだけニュアンスが伝わっているものなのかな~

ってこと。

政治の舞台で活躍される通訳者の方々の能力を疑うわけではありません。言いたいのは、翻訳って、情報の変換だけではないということ。

医学翻訳などでは、情報を正確に訳すことが重要で、下手なニュアンスなど出してはいけないことになっていますが、他の多くの分野では必ずしもそうではないです。むしろ、ニュアンスを伝えることが最重要とされる場合もあります。だけど、これが難しい。

ビジネス通訳のアルバイトで仕事場に行き、交渉が始まると、日本人クライアントの口から真っ先に出てくる言葉。
「よろしくお願いします」
まず、これを訳さなければなりません。
でも、「よろしくお願いします」っていう表現はドイツ語にありません。しかたないから、「お目にかかれて光栄です」とかなんとか言うわけですが、「よろしくお願いします」と「お目にかかれて光栄です」は同じではない。

同じ表現がなかったら、あるものの中から一番近いと思われる表現を探して代用するしかない。ニュアンスは多少違いますが、無理やり直訳しても奇妙なだけですから。

そのくらいなら、まあ別に問題は起こりませんが、一番嫌なのは冗談の通訳です。たいてい交渉中ではなく、みんなでお昼ご飯を食べたりしているときに、場を和まそうとしてか、いきなりどちらかが母国語でジョークを言う。そして、
「はい、訳して」
という顔でこちらを見るんです。ジョークの通訳ほど大変なことはないのに、本来の仕事時間ではない昼食時にそのような難題を気軽に振られると、ほんと焦ります。

日本人のジョークは主に駄洒落なので、訳しようがないし、ドイツ人のジョークは嫌味っぽくて、日本人はびっくりする。

ここで機転の利く通訳者なら、適当に別のジョークに摩り替えて乗り切るのかもしれませんが、咄嗟にオリジナルジョークなど、とても思いつきませんもの。困りますヨ。

適当なことをひとことふたこと言って、スルーしちゃいます。(ゴメンナサイ)

もちろん相手は笑いませんが、私、知りません~。

単なる情報の変換なら、さほど苦労しませんが、笑いを取るということは、聞く人に「可笑しい」という感情を呼び起こす必要がありますから、そこにはニュアンスの翻訳が必要になるのですね。

でも、この「ニュアンス」って日本人同士の間でもうまく伝わらないことがあって、「そんなつもりで言ったのじゃありません」ってことが多々ありますよね。同じ言語を使っている者同士ですらそうです。

他言語話者の間では何をかいわんや、です。

それでも、当人同士の間のコミュニケーションで生じた誤解なら、「そういうつもりじゃなかったのよ~」って直接言えばいいことです。しかし、言葉の通じない相手には、通訳者を通して弁解しなければならない。

通訳者がニュアンスを100%理解したかどうかの保障なんてない。通訳者も人間ですから、誤解することだってあるでしょうに、通訳という立場上、「てっきりこういう意味だと受け取りました」は許されないのが厳しい現実です。

想像しただけで、怖ろしい・・・



  1. 2005/10/21(金) 00:09:20|
  2. 言語
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色に関する更なる考察

色と人間。私の中ではまだケリがついていません。もう少しだけ、お付き合いくださいませ。

人間の肉体に光線をあてると、筋肉が緊張したり弛緩したりするが、その度合は光線の色によって違う。

これをトーナス変化と呼ぶのだそうですね。色による筋肉の変化を測定すると、赤・オレンジ・黄・緑・青の順に小さくなる。つまり、この測定値(トーナス値)が高い赤の光線を当てると、筋肉は緊張し、興奮状態になるとか。

また、産科医院の分娩室の壁やインテリアやファブリックには現在、ピンクが多く使われていて、私自身の経験でも、真っ白な「いかにも病院」という分娩室よりも、パステルカラーの方がリラックスできる気がします。ピンクには女性ホルモンの分泌を高める働きがあるといいますが、スムーズな分娩を促すために意図的にピンクが使われてもいるのでしょうか。

春先になると、なんとなくピンクなどの淡い色が着たくなったり、気分に合わない色の服を着て出かけると、一日調子がよくないというようなことも、女性であれば経験される方が多いのではないのでしょうか。

そこで、ふと考えたのですが、「制服」というのはどうなのでしょう。社会に制服というものが溢れているのは、それがもたらすメリットが存在するからにほかなりませんが、「毎日同じ色の服を着る」ことにデメリットはないのか。

日本では華美でなく無難な色として紺が多用されます。しかし、年がら年中、紺を着ていると、色による気分高揚・沈静効果を期待することはできず、逆にやる気が失せたりして、仕事の能率が落ちるなんてことはないのかな?

共産主義国では、一般に労働者の勤労意欲が低く、それは「頑張っても給料は変わらない」からと聞いていますが、もしかして、明けても暮れても同じ人民服じゃあ、気分がね・・・って可能性もちょこっとはある?

なーんて、考えすぎですかね~。


ご参考までにこんなサイト
  1. 2005/10/19(水) 19:45:54|
  2. へえ~のお話
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嬉しいようなショックなような・・・

今日の午後、来年度小学校一年生になる娘を「就学時検診」に連れて行きました。最寄の小学校の検診日は日程の都合がどうしても合わず、市内の別の小学校へ行きました。

子どもが検診を受けている間、校長先生のお話がありました。娘が通う学校ではないので、最初、それほど積極的に聞こうという気持ちではなかったのですが、先生が話し出したら、しだいに惹きつけられていきました。

内容は「現代の子育てにおいて何が重要か」というもので、まず、最初に「日常生活が高度に機械化され、知識が専門化・再分化されていく中で、生活リズムが人間の遺伝子に組み込まれた『内なる自然』に沿った生活リズムからどんどんかけ離れていっている。果たして子どもはそれに耐えられるのか疑問である」というところから始まって、「便利・快適・目先の利益などにとらわれず、何が本当に子どものためになるかを見極め、生活のありかたを考え直そう」というのが結論でした。

具体的には、早寝早起き、ディズニーランドなどの出来合いのレジャーにばかり頼らず生活の中で親子でいろいろな体験をすること、正しい食生活をすること、などが例として挙げられました。

そして、「昨今の研究で、食生活と精神的な問題との関係や、テレビやゲームが脳に与える影響など、すこしづつ解明されてきているが、まだまだ不明な点が多い。しかし、因果関係が明らかになるのを待っていては今の子どもには間に合わないかもしれない。理性で判断することはもちろん大事だが、本能的にこれはよくないのでは?と思うことがあったら、自分の感覚を信じて悪そうなものは避けるということも必要だ」と締め括りました。

そうかそうか、なるほどな。この校長先生、いいこと言うな~と思って聞いておりました。

が、しかし!いいお話が聞けてよかったと思う反面・・・この話をする校長先生の態度にいささかショックを受けました。

なんというか、あまりに腰が低いのです。

「私のようなつまらぬ者がこんなことを申し上げるのは大変失礼と承知しておりますが・・・・」
のような発言を、繰り返すんです。

親に遠慮しているのが明らかです。

あくまでも個人としてのたわごとをお聞き頂くって感じで、
「どうしてそんなに気を遣う!?」
って、びっくりしました。

世の中の親って、そんなに怖いんでしょうか。今の時代、校長先生すら、言いたいことを堂々と言えないのでしょうか?

学校を率いる存在なのだから、理念やコンセプトがあって当然だと思うのですが。威張る必要はないだろうけど、自分の考えは堂々と述べ、噛みつく親がいたってドンと来い!とはならないのかな。

なんだかな~。

多様性とか、個人重視とか、いいと思いますけど、何もそんなに遠慮しなくても・・・

日本の未来はどうなるのでしょう。

  1. 2005/10/19(水) 17:04:29|
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モンテッソーリについて教えてください

読者のみなさんにお願いです。

どなたか、「モンテッソーリ・スクール」について何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非、教えてください。

コメントでもメールでも結構です。よろしくお願いいたします。
  1. 2005/10/18(火) 19:43:07|
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日本語とロールプレイ

ルルル、ルルル~。我が家の電話が鳴ります。私は、夫との会話を中断して、受話器を取ります。
「はい、○○です」
「こちら、XX事務所の△△と申しますが、○○ビアンカ様でいらっしゃいますでしょうか」
その途端、私の声のトーンが高くなる。
「あっ、はいっ。お世話になっております~」

日本に来たばかりの頃、夫はそれを不思議がりました。
「どうして、急に声の高さを変えるの?」
うーん、どうしてでしょう。これって、いわゆる「営業用の声」というものなのでしょうか。

ドイツで、ドイツ語を使って生活していた頃を思い返してみると、相手によって声の高さを変えるということは、あまりしていなかった気がします。夫と普通の声で会話をし、電話が鳴ればそのままの声で電話に出、相手が誰かわかっても、そのままの声で応対する。わりと、そんな感じだったと思う。夫が電話で話しているのを聞いても、その口調から、友達と話しているのか、それとも母親か、上司かは大体察せられるけれど、声の「高さ」が特に変わることはないです。

これって、何なのでしょうね。

試しに、「誰とでも普通の声の高さで話す」という実験を試みました。でも、どうもうまくいかない。「奥様でいらっしゃいますか?」と、相手に営業用の高いトーンで話されると、それにつられてしまうのですね。無理して平常の声で会話を続けようとすると、なんだか無愛想な応対になってしまって、相手に失礼な感じすらします。

日本語の子供用ビデオを見ていたときに、気づいたことがあるんです。それは、番組に出て来るおにいさん、おねえさんの声がとても高いこと。ドイツでも、子ども番組に出て来るおにいさん、おねえさんの話し方は、たとえばニュースキャスターの話し方と同じではありません。でも、子ども番組だから声がうんと高いということはありませんでした。しまじろうに出て来る「みみりん」のようにキンキン声を張り上げる登場人物を、私は見かけませんでした。

どうして日本語の子ども番組では、登場人物がそんなに高い声出すんだろう?童謡のカセットを聴いていても、歌っている人の声は、つくり声なのです。謎でした。

もしかして、日本語を使って生活するということは、そのときの状況に応じて、ロールプレイをすることなんじゃないだろうか。

大学生のサークルの部室。2年生のA君が、椅子にふんぞり返って座っている。
「おい、ヤマダ!お前、ちょっと弁当買って来い!」
1年生のB君に命令する。そこへ、3年生のC君が入ってくる。するとB君は急に姿勢を正し、
「あっ。C先輩!お食事はお済みですか?まだでしたら、Aに買ってこさせましょうか」
口調も声もガラッと変わる。

先輩・後輩という関係じゃなくても、人は日常生活において、かなりいろいろな自分を使い分けています。八百屋では、「ちょっと、おじさん!それ一山頂戴」なんて、くだけた口の利き方をすることもあるけど、呉服屋さんで反物買うときにはそういう話し方はしないでしょうね。働いている店でお客さんに接するときと、自分が客としてサービスを受けるときでも、話し方はきっと違うでしょう。

そのときの状況にふさわしい自分を演じているのでしょうか。

英語やドイツ語で話すとき、相手が「教授」や「社長」のような社会的身分の高い人であっても、ある程度、対等に話しているという感じがあります。それは、欧米語には日本語にあるような敬語表現がほとんどないこととも関係しているのでしょうけれど。

いつ、どこで、誰といても、私は私。ドイツでは「立場」というものを、それほど意識することはありません。(そういえば、ドイツ語で「立場」ってどう言うのかなあ?)

日本ではいろんな「声」を持っている自分。考えてみれば、おもしろい。
  1. 2005/10/17(月) 22:28:39|
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保育士と親と子どもと

今朝、いつものように、保育園のバスが我が家の前に停まりました。娘は、バスのドアが開くのが待ちきれず、
「シンイチ!シンイチーッ!」
大声をあげながら、バスへ走り寄りました。
「シンイチ、あのね。昨日、花火したよ!」
シンイチというのは園長先生です。シンイチさんは、保育園の経営者ですが、自ら日常の保育にあたり、園バスの添乗もします。

ドアが閉る直前に、私は園長先生に、「よろしくお願いします」と言い、娘には「ゆりこ、行ってらっしゃい」と言いました。しかし、娘は私には目もくれず、「シンイチ、あのね」と園長に話しかけています。

バスは去っていきました。娘の嬉しそうな横顔と、シンイチさんが娘に注ぐ暖かいまなざしが一枚の絵のようで、その絵はだんだん小さくなっていきました。娘は本当に園長先生が好きなのだなあと、ちょっとじーんと来ました。

子どもの幼稚園や保育園を選ぶとき、普通は何を基準に決めるものでしょうか。私は、息子や娘の預け先を決めるとき、何を考えたのか。

その幼稚園(保育園)は、何を提供してくれるのか

これだけだった気がします。お金を出してそこへ行けば、何かが自分(の子)に与えられる。私(の子)はそれを受け取る。「自分はそれをどう受け取るのか」なんて、考えたこともありませんでした。

今、娘が通っているのはオルタナティヴ系の保育園です。保育内容に惹かれて決めたのですが、入ってみてびっくり仰天しました。親のやることが、ものすごく多いのです。行事も多いし、仕事も多い。なんでも助け合いで事が運ばれていきます。

最初は楽しそうな雰囲気につられて活動に参加しましたが、しばらくするとだんだん重荷になってきました。忙しいから子どもを預けているのに、何故親にこんなに負担をかけるのか。親はここまでしなくてはならないのか。

確かに、活動を通して、親同士、とても親しくなれました。それ自体は楽しく、本当に喜ばしいことです。でも、それにしても大変。核家族で、仕事をしながら子育てをしているのに、園の手伝いやママ友達、パパ友達とのおつきあいもしなくちゃいけないんじゃ、あっぷあっぷです。

そんなふうに文句ばかり言う私とは対照的に、夫は週末になると喜んで保育園へ出かけて行きます。忙しくて都合がつかないときもありますが、時間のある限りは積極的に活動に参加します。もともと人の集まるところが大好き、という性格的な理由もあるのですが、彼はいつもこう言うんです。

「子どもは村で育つのがいいよ。保育園は村みたいだ」

田舎育ちの夫。小さな村で、たくさんの大人たちの暖かい目に守られて育った。いたずらをたくさんして、村のおじさん・おばさんに大目玉を食らって、罰としてツラーイ畑仕事を嫌というほどやらされたこともある。でも、叱られても、拒絶されていると感じたことはなかった。だから犯罪に走ることもなく大人になれたのかもしれないな。村で育ったことは、自分にはとても幸せなことだったんだ、そう言っています。

そういえば、ヒラリー・クリントンも、
「子どもはコミュニティの中で育てられるべきだ」と言っていましたね。神戸大学発達科学部の広木克行先生も、著書「手をつなぐ子育て」の中で、大人同士が仲間になって一緒に子育てをすることの大切さを説いています。

頭ではわかるんです。とても大事なことだって。でも、実際問題として、やっぱりなかなか大変なことです。無限に時間があるわけでもありません。そのへんがジレンマ。いくら保育内容が気に入っているといっても、あんまり大変なんじゃあね~って思うこと、よくあります。それに、100%理想的な保育園などこの世にあるはずもなく、「ここんところが、ちょっとなー」という点だって結構ある。

なのに、「大変だから別の保育園に変わろう」とは、一度も思ったことありません。何故なのかな?不思議だったけど、今朝、やっとわかった気がしました。

娘は毎朝、園長先生に飛びついていきます。
「シンイチ、みてみて。自転車、こんなにじょうずになったよ!」
「シンイチ、シンイチ!聞いて聞いて!」
娘は園長を愛しているんです。そして、私もこの園長が大好きです。いつも着たきり雀で、忘れっぽいところもあって、とても経営者らしく見えないけど、子ども一人一人を本当に愛してくれる人です。だから私も、「充実した保育を提供してくれる人」としてではなく、人間として園長を信頼している。

自分の大好きな人に子どもを預けられて幸せだなと思います。預けた子どもが確実に愛されるのだという安心感ってすごいです。子どもを預けるという行為において、「信頼関係」が何にも代えがたいものなのだと、ようやく気がつきました。

そして、「信頼関係」を築くには、「受け取る」だけじゃダメなんだな~って、少し反省・・・

「子どもがお世話になっているのだから、園の仕事を手伝わなくちゃ」とか「みんなやっているのだから、自分もやらなくちゃ」じゃなくて、「保育士や他の保護者と一緒に何かがしたい」って気持ちが大切だったんだなあと、しみじみ思います。

信頼関係って、たくさんの係わりの中からしか、生まれないのですね。




  1. 2005/10/17(月) 10:18:22|
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何色が好き?

だいぶ前になりますが、夫とこんな会話をしました。

夫「ねえねえ。知ってる?アメリカでは、赤い車に乗ってるドライバーは自動車保険の保険料が高いんだって!」
私「なにそれー」
夫「赤を好む人間は攻撃的だから、事故を起こしやすいんだって」
私「えー、そうなの?」
夫「でもさ、オレみたいに中古の車しか買わないヤツって、色なんかあまり気にしないよね。たまたま安かったから買ったのが赤だったってこともあるよね」
私「そういえば、うちも前に赤い車乗ってたね~」

本当にアメリカでは赤い車のドライバーの保険料が高いのか、真相は定かでありませんが、「色と心理の関係」ってちょっと気になっていました。

女性誌によく、「あなたのパーソナルカラーは?」というお洒落アドバイスを見かけます。人を「春夏秋冬」の四つのタイプに分け、似合う色を判断する、あれです。

私は秋タイプ。確かにオレンジやブラウン、ゴールドなどが似合います。でも私、これには不服なんだ!本当は、好きな色は青や緑。水を連想する色が大好きです。それなのに似合わない。残念~。

最近、色彩心理の本を見てみましたところ、いろいろ面白いことが書かれていました。

ロールシャッハテストというのがありますよね。色のついた図版を見て、何が見えるかを答えるもの。そのときに、図版の色と形のどちらにより強く反応したかで、その人の性格がある程度わかるらしい。

色により強く反応する人は、「感受性が豊かで表現力があり、突然の環境変化にも心の動きをコントロールでき、他者とも暖かい人間関係が構築できる」そう。一般に、色は情緒的側面、形は知的側面に結びつくとか・・・

そして、赤や黄色などの暖色に反応する人は、愛情欲求、敵意を外に向かって示そうとするタイプで、行動力があり、自らが環境に積極的に働きかけようとするタイプ。青や緑などの寒色に反応する人は、自己に対して抑制が強い場合や依存的欲求がある。

エッ?私って、抑制・依存タイプ・・・?

みなさんはどうですか?

子どもの絵の色彩とそこに表れる心理というのも、よく研究されているようですね。

白は警戒心と失敗感。
黒は恐怖と抑圧。
赤は興奮・活動・不満・攻撃
オレンジは強い愛情欲求
黄は愛情欲求・依存
黄土は劣等感
茶色は物的欲求
緑は心労・衰弱・悲哀
青は服従心・義務感・自生・自立
紫は疾病障害

へえ~という感じです。

でもだからと言って、素人が中途半端な知識で、色彩から子どもの心理を読もうとするとちょっと危ないかも・・・

こんなことがありました。小学校1年生の私は、友達と二人で、お菓子の包み紙を画用紙にペタペタ貼りつけて遊んでいました。包み紙は色とりどり。赤・黄色・ピンク・緑・紫・青・・・
友達がサッとテーブルに手を伸ばしました。
「あたし、これがいい~!」
綺麗な色を全部、取ってしまいました。残ったのは陰気な色ばかり。でも、「私もきれいな色がいい」とは言えなかったんです。しかたがないので、貼りました。青・紫・茶色・黒ばかりを。

そこへ父が入ってきて、私たちの作品に目をやり、さっと顔を曇らせた。
「ビアンカ。お前は、そんな暗い色ばかり好んで・・・・」
ああ、どうしよう。娘には何か問題がある!父の当惑を感じました。「たまたまその色を選ぶしかなかった」んだけどなー。

それから、こういうことも。子供の頃、私はお日さまを黄色く塗っていました。だって、黄色く見えたから。
「ビアンカちゃん、お日さまは赤でしょう」
幼稚園の先生に叱られました。でもどうして?私には太陽は赤く見えないのに。
「やっぱり、うちの娘には問題が・・・」
父は心配したかもしれません。

でも、ドイツでは、大抵の子は太陽を黄色く塗るんですね。それを発見して拍子抜けしちゃった。別に私がおかしいってわけじゃないのね。多分、日本人の多くにとって、お日さまは赤いイメージなのでしょう。日の丸も赤いし。色のイメージって、文化によっても違うんですよね。

人間の色彩に対する反応は、本能的な部分と、文化による部分と、実際的な部分などが複雑に絡み合っているのでしょう。
  1. 2005/10/16(日) 00:33:43|
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泥棒の気持ち

ドイツでは高速道路は無料です。

そのため、日本の高速道路の料金所でお金を払うたびに、夫はつい、ヒトコト言いたくなってしまうようです。今日も、ほんの数分走って400円。

お金を払ってふたたび走り出すとき、彼は日本語で言いました。
ドロボウハ、400エン、モラッタ!」
思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「それを言うなら、『泥棒に400円、盗られた』だよ」

「盗られた」だと、盗まれた人が迷惑してる、困ってる、怒っている気持ちに発言の重点がある。
「泥棒はもらった」だと、泥棒さんの嬉しい気持ちに重点が移ってしまいます。

~に・・・れる(だから迷惑~)

これがドイツ語にはありませんから、使えないのは仕方ないですね。

「息子にチョコレートを食べられた」
「妻に風呂掃除をさせられた」
「娘にシールを買わされた」

いやだよぉ~、迷惑してるんだよぉ~、という表現法がありません。ドイツ語だと、「私は盗られた」と「泥棒は盗った」のニュアンスの違いがほとんどない。考えてみると、他にもドイツ語でうまく言い表せないことがいろいろあります。

~ちゃった

「太った」と言えば、太って嬉しいのか、悲しいのか、どうでもいいのか、よくわかりません。でも、「太っちゃった」というと、それが遺憾なことなのだとわかります。

~てもらう、~てあげる、~てくれる

これもドイツ語ではみな同じ。

~て頂くなんてのももちろんない。

嬉しい、悲しい、遺憾だ、迷惑だ、有難い、などという感情をドイツ語で表すには、
「嬉しいことに、Aさんは私にこれを与えました」
「悲しいことに、妻が死にました」
「遺憾なことに、太りました」
「迷惑なことに、上司は私にコピーをさせました」
「有難いことに、Aさんは私に本を貸しました」
と、感情を表す言葉をわざわざ添付しなければならないですね。

日本語って「感情」が文法に組み込まれている言語なんだなあ~。

「何がどうなった」という事実だけでなく、その状況が当事者に沸き起こす感情に大きなウェイトが置かれるのが日本語だと言えるでしょうか?


  1. 2005/10/15(土) 15:57:29|
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まだいける!?

ルーマニア人の友人から、今朝メールが届きました。

三人目の赤ちゃんが産まれたのです。友達は私と同い年。可愛い赤ん坊の写真を見て、「よかったね。おめでとう」と思うと同時に、「そうか・・・まだいけるんだ」とちょっと動揺してしまいます。

自分は二人の子どもでじゅうぶん。年も年だし、もう子どもは産まないわ、っていつも思っています。でもこの頃、「ほんとに、ほんとにいいのか?」って、時々自分に確認するんですよね。あと5年くらいして「やっぱりもう一人」と思っても、時既に遅し、ですから。

息子は赤ん坊の頃から、あまりに活発でした。ベビーベットやベビーサークルに入れておくことは不可能で、植木鉢の土は食べるわ、本棚の本や引き出しのものはすべて出すわ、一秒も目が離せない子でした。料理をするときにそばに来られては困るのでバリケードを作っても、無理やりバリケードを破壊して乗り越えてくる、怪獣みたいな子。

ベビーカーに乗せて外に連れ出すと、ベビーカーから飛び降ります。紐で縛り付けると、忍者のようにするすると縄抜けして脱出します。

ゴミ箱を荒らすので、ゴミ箱は床に置かず、壁に固定しました。成長するにつれ、固定位置はしだいに上がっていき、しまいには我が家のゴミ箱というゴミ箱はバスケットボールのゴールのようになった。

壊されたモノの数も凄いです。テレビのリモコンやコードレス電話は始終落とされ、テープレコーダーは分解され、夫のメガネのつるはさんざん折られ、ビデオテープはすべてテープを引っ張り出され、トイレットペーパーはお風呂のお湯の中に放り込まれ・・・

あるときなど、飛びついてきた息子の後頭部が私の顔面を直撃し、私は鼻の骨をへし折られたんです。

「さわっちゃだめぇ!」
「登っちゃだめぇ!」
「飛んじゃだめぇ!」
いつも怒鳴り、追いかけていました。

だから、二人目なんて絶対欲しくなかった。子どもは金輪際いらないと思っていました。

でも、何故か、また産んじゃったんですよね。

妊娠中も不安でいっぱいでした。私、ほんとに二人も育てられるのかな・・・
「大丈夫、今度はきっとおとなしい子だよ」
「そうそう、大介くんほど大変な子はそうそう産まれないよ」
みんな、そう言ってくれたんですけど。

しかし、そうは問屋が卸さなかった。私にはおとなしい子なんて決して産めないのです。娘は、息子のような乱暴者ではなかったけれど、その代わりとんでもない自己主張女。産まれた瞬間から「抱け!抱け!」と要求し、産院に入院中、ただの一度も新生児室で寝てはくれませんでした。ベビーベッドに下ろすと怒るので、四六時中抱きっぱなし。今も性格はそのときのままです。

だから、三人目はゼッタイにありえない。

そう心に決めていたはずなのに、この頃、スーパーなどで赤ちゃんを抱いている人を見かけると、

「可愛いな~」

と、目が♡になっている自分を発見して、焦ります。

・・・・・不思議なものです。
  1. 2005/10/15(土) 10:18:21|
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Beatsteaks、来日!?

先ほど、夫がドイツ出張から戻ってきました。家に2時間くらいいて、わーっと土産話をしたら、会社へ行ってしまいました。

ベルリンに住む従兄弟、ペーターの家に寄って来たそうで、帰るなりペーターの話をひとしきり。ペーターはミュージシャンです。Beatsteaksというパンクロックバンドで、ギター弾いています。

若い頃から音楽に夢中だった彼は、
「まったく勉強もロクにせんで、くだらん音楽にうつつを抜かして・・・」
と親戚中から、しょうもない野郎呼ばわりされてきたのです。しかし最近、このバンド、ドイツでかなり人気上昇中!ペーターのお父さんは役者なので、エンターテイナーとしての血筋なのかもしれません。

そのペーター君の属するBeatsteaks、近々、日本進出を狙ってるらしいんです。現在、来日用のCD録音中とか。

「オレたち、日本市場に乗り込むぜぇ!そんときゃー、よろしく。お前んちのビアンカ、いろいろ手伝ってくれるよなあ?」
と、夫を通して打診されてしまいましたよ。

って言ってもねー。私、音楽は好きですが、この手のジャンルはさっぱり。サブカルチャー用語とか知らないし、期待されても困ります。どの程度お手伝いできるもんだか・・・

でも、ちょっとオモシロソウ。

来年、もしかしたらベルリンに住むので、ペーターやそのアメリカ人ワイフのへザーと遊ぶのが楽しみです。

ということで、Beatsteaks、ちょっと宣伝しておきます。

  1. 2005/10/13(木) 13:05:05|
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ヘディングと脳の損傷

シュタイナー校では、サッカーをして遊んではいけない!?

そんな噂を耳にしています。うちでは、来年のドイツ帰国後、子供達をシュタイナー校に入れることも検討中なのですが、サッカー禁止は辛いなあ。だって、息子はサッカー大好きですから。

人に聞いてみたところ、すべてのシュタイナー校でサッカーが禁止されているわけではないようですが、基本的にあまり奨励はされていないらしい。でもどうして?
「ヘディングが体によくないのだ」
と聞きました。そうなのでしょうか?詳しいことをご存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えてください。

でも、ヘディングは、確かにあまり健康上よろしくないようですね。今朝届いた、Die Welt紙のニュースレターにこういう見出しを見つけました。

"Kopfbaelle und Hirnschaeden"(ヘディングと脳の損傷)

これによりますと、アメリカのノース・カロライナ州立大学が、「プロのアメリカン・フットボール選手がアルツハイマーに罹る確立は、普通の人(選手じゃない人)に比べ、37%も高い!」という研究結果を発表したそうです。脳震盪を頻繁に起こすのが原因ではないかと考えられるらしい。

アメフトではヘルメットを被りますし、サッカーのようなヘディングがないにもかかわらず、こういうデータ。ドイツでも、サッカー選手とボクサーには脳損傷による後遺症を患う人が多いと言われているそう。

ひょえ~。怖い!

どの程度、心配なのかはよくわかりませんが・・・気をつけたほうがいいのかも。

こういう関連記事見つけたんですが、どうなのでしょう? 続きを読む
  1. 2005/10/13(木) 09:54:02|
  2. へえ~のお話
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日本食の食べ方

喘息発作のため、二日連続で点滴して来ました。ああ~っ、空気を吸えるって気持ちいいねーっ。「空気のような存在」という表現がありますが、空気って侮れません。吸えて当たり前じゃないのョ。喘息患者は・・・

ということで日常生活(ブログ含む)に復帰です。でも、病み上がりなので、軽い話題で。


夫の両親は日本食が好きです。

義母は好奇心旺盛で、知らない味に挑戦するのが趣味。義父は健康オタクで、普段から食事は繊維やミネラルたっぷりの自然食派。「日本食はヘルシー」とのイメージから、私の作った料理を喜んで食べてくれます。

我が家に遊びに来るときには、
「今日はどんな料理が出るのかしらネ。ワクワク~」と言いながら来てくれるらしく、楽しみにしてくれると私も張り合いがあります。私、恵まれていますね。

でも、ちょっとだけ言わせてもらうと、彼らは日本食の食べ方をイマイチ理解していない部分があります。

「日本食は、ご飯とおかずで成り立っている」
「おかずは普通、複数ある」
ここまではとっくにわかっている。でも、なかなかピンと来ていないようなのは、
「ご飯には味がついていない」ことと、
「おかずの味はそれぞれ違う」こと。

どのおかずも、「美味しい、美味しい」と言って食べてくれるのですが(お世辞でも嬉しいです)、ご飯をお茶碗からそのまま口に運ぶことはしないのです。ジャーッとお醤油をかけるか、煮物の器の中にドップンと漬けて、味をつけてから食べたりします。

それから、トンカツを一切れフォークで刺して、それを煮物のつゆに浸してから食べたりもします。

うーむ・・・やっぱり、わかってないな~。それとなーく言ってみたりもしたけど、どうもピンと来ないらしい。

ドイツ食というのは基本的に一つのお皿に肉料理と、じゃがいもと野菜料理が一緒に乗っています。お肉にはグレービーソースをかけますが、このソースはじゃがいもの上にもかけます。そして、野菜の方にも流れていきます。野菜にはすでに味がつけてあることが多いので、そのままで美味しいし、ソースは不要な気がするのですが、ドイツの人はお肉もおいもも野菜も全部一つのソースにからめて食べるのが好きなようです。だから、ご飯に味がついていないとか、おかずの味を混ぜないというのは、わかりにくいみたい。

食堂などでは、サラダが一緒に肉やおいもと同じお皿に盛り付けてある場合があって、ソースがサラダのドレッシングとお皿の上で融合しているときがある。これは私には抵抗があるのですが、ドイツ人はあまり気にしないようです。

まあ、そんなことにケチをつけるのはやめましょう。ドイツ料理なのですから、ドイツ人が好きなように食べるのがよろしい。そして、ちょっとくらい日本食の食べ方が変でも、私の下手な手料理を喜んで食べてくれるのだから、つまらぬことに目くじら立てたりしないようにしましょう。

とは言うものの・・・・

あるとき、ヒドイことが起こりました。夫の両親のことではありません。別の方です。

若いドイツ人カップルが、「是非、日本食を食べてみたい」と言うので、家に招待しました。女性の方は、中華料理は食べたことがあるけど、日本食はまったくの初心者だという。何が食べられるかな、と悩んで決めた献立は5品。嫌いなものがあっても何かしら食べられるものがあるようにと、甘めの味、辛い味、しょっぱい味、酸っぱい味、などいろいろ考えました。彼らのやってくる何時間も前からキッチンに立ち、一生懸命作りました。

お箸は使えないそうなので、食べやすいように、テーブルの真ん中に料理を盛った鉢を置き、平たい大きなお皿に好きなものを自分で取ってもらうことにしました。小鉢に盛ったのではナイフとフォークでは食べずらいから。

「わあ、美味しそう。いただきまーす」と、早速おかずの器に手を伸ばしてくれたので、よかった・・・とほっとしたのですが。

女性のかた、お皿いっぱいにご飯とすべてのおかずを盛ったかと思うと、いきなりテーブルにあった醤油の瓶を取り、ジャーッと料理の上に回しかけたんです。味見もしないうちに。そして、ナイフとフォークを片手づつに盛って、ご飯とおかずを丁寧に混ぜ合わせ始めた・・・

ぎゃあーっ

それは・・・ビビンパではありませぬっ!

せ、せっかく作ったのに・・・一つ一つ、丁寧に味付けしたのに・・・

もう泣きそう!

私の顔がひきつっていたのでしょうか、彼女は私の方を向いて不思議そうにしました。
「何か変?」
「あの・・・それじゃ、味がまざって美味しくなくなっちゃう」
「え?私はいつもこうして食べるのよ」
そして、彼女は、あーおいしい!と言いながら、パクパクとその残飯もどきを食べていました。

ウワッ。と叫んでキッチンに駆け込み突っ伏したいのを必死で堪えていた私。食べ方を知らなかったんだから、しょうがないよ。本人がそれで美味しいと言っているんだからいいじゃないか。


でも・・・・あのときは、ほんとに悲しかったです。
  1. 2005/10/12(水) 15:49:59|
  2. ドイツ
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ゆとり教育に伴う「学力低下」についての補足

先々週は娘が病気、先週は息子が病気、昨日から私が病気モードに突入です。夫はまだ出張中・・・

下書きした記事があったので、アップして、寝ることにしましょ。

先日の「ゆとり教育」に関するエントリーへの補足なのですが。

市川伸一 「学力低下論争」に、参考になることが書かれていました。「学力が下がったら、何故いけないか」について。

この問題を検討するとき、その個人が考える「学習や教育の目的」によって、同じものが随分違って見えるようです。ちょっと引用しますと・・・

 各学問の専門家が「学問・文化の維持・発展」、社会学や経済学からの論者が「産業社会の維持・発展」という視点から教育を捉えているのに比べると、教育学や心理学の論者は対照的で、「個人の自己実現」ということをベースに教育を考える傾向がある。とりわけ、教育学では、労働力を供給する手段であるかのように教育を捉えることに対する、アレルギー的な反発がある。「子ども一人一人の興味や関心を大切にしながら、そのもっている力を引き出していくのが教育である」(後略)



なるほどっ。母親である私は教育を「自分の子どもの自己実現」をベースに考えてきたことがわかりました。国がどうなる、文化がどうなるという以前に、自分の子どもが幸せに生きられるかどうか、が最大の関心事であるというわけなんですね。

さらに、

 ちなみに、文部省のほうはどうだろうか。政府の機関である以上、文部省はわが国の社会全体の維持・発展を考えてきたはずだ。ところが、省庁の中では、比較的その感覚が弱いほうだとも言われている(中略)文部省は、とくに一九八○年代以降、校内暴力、いじめ、不登校などへの対処を迫られたこともあって、いっそう個人尊重的な教育観にシフトしていた。



はあ、そういうことか。

私は日本の教育方針や現状に満足はしていないのですが、でも、ドイツの学校に関する夫の話を聞いていると、「日本の学校も結構いいところがあるな」と思ったりもします。それは、「いろんなことを少しづつ勉強できる」という点です。

ドイツ人には楽器の演奏がまるきりできないという人が結構います。音楽性に優れているはずのドイツ人なのですが。というのは、日本の学校でのようにリコーダーや鍵盤ハーモニカなどあまり教わらないらしいのです。(あまり、と書いたのは、ドイツは州によって教育内容に微妙に差があったりするので、はっきりとはわかりません)日本の学校には必ず音楽室があり、そこにはピアノ・オルガン・アコーデオン・タンバリン・トライアングル等、いろいろな楽器がありますよね。義務教育を終えるまでに随分いろんな楽器に触れました。

ドイツ人の中には全く楽譜を読めないし、音階というものも知らない人がいて驚きだったのですが、学校で教わらず、ピアノ等の習い事もしなければ、一生無縁で終わるようです。

「家庭科」という科目もないので、ボタンのつけ方、料理なども全然習いません。

先日、息子が図工で使うので彫刻刀を購入したのですが、それに夫は驚いていました。学校で彫刻刀を使ったことがないそうです。それから、夫は色のコーディネートというのが苦手なんですが、配色の基本について学校で教わらなかったそうです。日本では中学の美術でやりますよね?

考えてみれば、日本の学校では随分といろんなことをやります。図工に限ってだけでも、写生、粘土細工、木版画、エッチング、彫刻はもちろん、私の記憶では七宝焼きやらろうけつ染めまでやりました。あれ?ろうけつ染めは中学の家庭科だったかな?

給食のときに、栄養の勉強もした覚えがある。毎年文集を作ったりもしました。係りの仕事というのもあって、美化委員とか給食委員とか、特定の業務を担当しますよね。校内放送っていうのもありました。私は放送委員でDJをやったことがあります。

教室の掃除もやりますね。

そう考えると、日本の学校って、主要科目だけでなく、実にいろんなことに配慮してカリキュラムを組んでいる気がします。だから、日本の文部省もなかなか頑張っているのでは?教科書も無料で配布してくれるし(そうでない国、たくさんあるみたい)、子供向けの学習書の充実度だって素晴らしい。図書館へ行くたびに感動します。

「でも、広く浅くじゃ、結局何も身につかないんじゃない?」という批判があると思います。

私個人としては、長い人生、何が役に立つかわからないのだから、いろいろやっておくのもいいんじゃないかな、と。

しかしこれも、「国力」や「科学の発展」などの視点を無視した、個人ベースの考え方であったかもしれません。

また、的を絞った学習法というのも否定するわけではない。

実際、息子を通わせたドイツの公立小学校では、一年生のうちから理科や社会はプロジェクトワークで、「鳥」についてものすごく詳しく調べたりしていました。そういうのもいいのかもしれません。

狭く深く学習する利点もあるだろうし、広く浅くの利点もあるだろうから、本当に何とも言えないんですが・・・

とは言え、基礎学力はやっぱり低下しないほうがいいですね。

日本の「教育観」は今後どのように変化していくのでしょうか。
  1. 2005/10/07(金) 12:53:40|
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「立体人間」になりたい

何度かチラッと書いてきましたが、私は最近、「折り紙」に取り組んでいます。取り組む、なんていうと大袈裟に聞こえるでしょうが、実際、「遊んでいる」というより、「取り組んでいる」と言ったほうがしっくりきます。

なぜかというと、私は「空間認識能力」に非常に乏しいようで、少しでもそれをマシにしたいので、折り紙に挑戦することにしたんですね。子どもの頃から、折り紙には全く興味がなかったのですが、折ペルカーゾのなかいさんに触発されて、やり始めました。

やってみると、自分がいかに空間を認識できないかを痛感します。図形感覚に優れた息子との違いがあまりに歴然として、最初はほんとにガックシでした。でもめげずにやっているうちに、ちょっとづつ楽しくなってきました。

現在はユニット折り紙をやっていますが、たとえば、立方八面体を展開させて正八面体にする、というようなの。私、ゼンッゼンわかりません。やっとの思いで作った立方八面体を穴が開くほど見つめていても、どうすれば正八面体になるのか、イメージが沸かないのです。

「それはね、こことここの正方形の部分を四角すいで隠せばいいんだよ」
と息子に言われても、まったく何のこっちゃです。

目の前で実演してもらって、やっと「な~んだ、そうかあーっ」。

「話を聞かない男、地図を読めない女」ってありましたよね?確か、女性は一般的に空間認識能力が低いから、車の運転に不向きだとか、そういう内容ではなかったでしょうか。

私、車の運転がダメです。でも・・・何故か、地図は読めるんです。読めるどころか、地図フリーク。暇なときには、目的もないのに、何時間でも地図を見て喜んでいます。変な趣味です。だから、地理にも結構詳しい。

だけど、すっごい方向音痴なんですよねー。どういうことなんでしょう?

と思っていたら、今日義妹と話をしていてようやくわかりました。どうも、「平面」はOKだけど、「立体」が苦手なようです。考えてみれば、子どもの頃から、パズルや迷路は好きでしたが、ブロック遊びはしませんでした。

私の夫は物理が専門なのですが、日本語が読めないのに、日本語表示のカーナビ画面を見ると一瞬にして移動方向がわかり、埼玉のめちゃくちゃな道にも迷うことなく目的地に辿り着けます。それに対し、私はカーナビ画面の情報はちゃんとわかるのに、いざ運転し出すと方向がわからなくなり、すぐに迷って大変。

これって、夫は「平面情報」を立体に応用することが得意で、私にはそれができない、ということでしょうか。

なんだかそんな気がしてきました。

息子はおそらく、夫の「立体性」を受け継いでいるんでしょうなあ。娘は、どうやら私と同じ「平面人間」なようです。折り紙のユニットを横に平たく繋いでオブジェを作っています。

あるとき、木の切り株に好きなものを木工ボンドで貼りつけてオブジェを作るという工作を、二人にさせたことがあります。息子は枝などを多用し、上へ横へと展開する作品を作りました。娘は木の実を切り株の表面にびっしりと並べ、まとまりのある作品を作りました。

まるきり違って、面白かったです。

立体感覚を身につければ、世界は違って見えるのでしょうか。

夫と息子の世界を見てみたい私です。
  1. 2005/10/07(金) 10:57:06|
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狭間族の憂鬱

先日、ブログを通して知り合いになった方にお会いしました。私と同じで、ご主人がドイツ人、日本で子育てされています。

その方が、こんなことを話してくれました。

「ドイツで生活していたせいか、日本人のお母さん達の輪の中にいると、なんとなく感覚が違うというか、浮いている自分を感じるのよね。でも、ドイツへ行けば行ったで、考え方に馴染めない部分もやはりあるし。どっちつかずと言うか、変な感じ。このままずっとそういう状態で子育てすると思うと、ちょっと憂鬱・・・」

うんっ、わかるわかる~。

ドイツの小学校の保護者会で、ドイツ人の親達のお喋りを聞いていて、会話についていけない自分にウンザリしたことがあります。もはや、ドイツ語がわからないわけではない。でも、なんかズレを感じるんです。

「金曜日に宿題出す先生なんて、最低よねー」
「そうよそうよ。信じられな~い!」
そんな風にみんなが盛り上がっていても、
「へえ~。金曜日に宿題出すのが、そんなに悪いことなんだ・・・」
と、私は思ったりするのです。だって、日本では別に普通のことですよね。長年ドイツに住んで、言葉も習慣もかなり身についたとはいえ、子育ては初めての経験なので、やっぱり驚くことが次々と出てきます。しかし、「日本ではね・・・」なんていちいち日本の話を持ち出すのも白けるので、適当に相槌を打ってまわりに合わせるか、コメントせずに静かに聞いているしかありません。

だから私はみんなに、
「あの人、おとなしいわね~。やっぱり日本人は無口だわ」
なんて思われがちだった。(本当はお喋りなのに)

だけど、日本に帰って来たら、やはり日本でも私は少々ズレている。まっ、そんなことだろうと想像はしていましたが。

一度異文化に浸かってしまったがために、今まで疑問に思わなかったことがいろいろ疑問に思えてきてしまい、うーむ・・・と考え込んでしまう。文化の狭間に生きる人は、多かれ少なかれ経験することではないでしょうか。

私は人生の1/3ほどを海外で過ごしたので、異文化とともに生きることは私の血肉となってしまい、いまさらどこか一つの文化の中にしっかりと収まっては生きられない気がします。今となっては、「私は誰?」と自問自答することもなくなりました。

でも、ここに到達するまでには、紆余曲折ありました。

16歳でアメリカへ留学したとき、私が味わったカルチャーショックはちょっと形容できないほど激しかったです。フツウに真面目な高校生だった私には、日本で良いとされていること、また、悪いとされていることが、アメリカではそのまま通用しないというのが驚きでした。

ハイスクールへ行った初日の放課後、先生に言われた通りに校門前のスクールバスに乗り込み、発車を待つ間、窓の外で繰り広げられる高校生カップル達の映画より凄いラブシーンに、ボーゼンと見入っていたことを思い出します。
(懐かしいなぁ)

いろいろビックリ仰天の連続でしたが、しかし、そこはやはり子ども。半年もしないうちに慣れてしまいました。そして、アメリカンライフを思い切り満喫。

ところが、一年後に帰国してからが大変。
「ああしなければなりません」とか、
「こうしてはいけません」とか言われるたびに、なんで?と思ってしまう。どうして?何のために?そんなこと、誰が決めたの?

私の価値観は壊れてしまったのです。

とても混乱しました。何が正しくて、何が間違っているのか。私は一体、何者?大学に進学してからも、混乱は続き、夏休みや春休みになるとアメリカへ飛んで行く生活。

長い葛藤期から脱出するきっかけとなったのは、メキシコ旅行でした。アメリカ南部から長距離バスでちょこっと国境を越えた程度だったのですが、そこで私はハッと我に帰った。何故なら、日本でもアメリカでもない場所がそこにあったから。

このメキシコ体験の日から、私の世界放浪が始まったんです。日本でもアメリカでもない場所を探す旅。いろんなところへ行って、いろんなものを見て、いろんな人に遭って・・・そしてだんだんわかってきた。

世の中、「なんでもあり」ってことが。

なーんだ、そうだったのか~。縛られる必要なんてないんだ。そう思ったらスッと楽になりました。だからもう、あんまり気にしません。自分がどこに属するのかということは。

「う~ん、これは一体どういうことだ?」ということは今でも日常茶飯事ですが、考え悩むのがすっかり趣味と化しています。悩む材料がないと退屈してしまうくらいです。

と、のん気なことをほざいておりますが・・・

子ども達のことは、かなーり心配。

日本へ引っ越してきたとき、ドイツで幼年時代を過ごした息子は、精神的にかなりのショックを受けたようでした。言葉がよくわからなくて、それだけでも不安なのに、ドイツではまったくOKだったことが、日本の学校では禁止されていて、さんざん注意されたり、数字の書き方が違うと怒られたり。ドイツでは大勢のうちの一人にしか過ぎなかった自分が、突然「ガイジン」として皆の注目を浴びたことや、まわりの子が、ガイジンである息子とどう接していいのか戸惑い、なかなか一緒に遊んでくれなかったこともショックだった様子。いろんなことがいっぺんに重なり、息子はすっかり自信をなくしてしまいました。 

ドイツではあんなに明るかった子が、すっかり神経質で影のある子に変身してしまい、痛々しくて見ていられませんでした。日本人であり、異文化にもちょっとは詳しいこの私がついていながら、なんということ・・・

あれから3年。今ではすっかり日本の小学生になりましたが、来年ドイツへ帰ったら、また一波超えなくてはいけないのでしょうか。そして、ドイツのことはほとんど忘れている娘は・・・?


はあーっ。狭間族は辛いわ。

悩みながらも、ポジティヴに成長していってくれるといいんですがね~。
  1. 2005/10/04(火) 21:24:31|
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さっぱりわからない、「ゆとり教育」論争

日本の「ゆとり教育」は、私達がドイツに住んでいる間に導入されましたが、帰国した3年前には既に、「ゆとり教育はよくない」ということになっていたようで、一連の「ゆとり教育論争」にはすっかり乗り遅れてしまいました。

「ゆとり教育のせいで子どもがバカになった」という批判を、あちらでもこちらでも聞き、「ふーん、そうなのか。ゆとりって失敗とみなされているんだ」とは認識したものの、私にはいまだによく理解できていません。

一体、何がそんなに問題となっているのでしょうか。

「日本の学校教育は丸暗記の詰め込み方式で、考える力がつかないばかりか、子どもが精神的にゆとりを持てず、それが社会の歪に繋がっている」という反省から、「もっとゆったりとしたカリキュラムを」ということになった。しかし、カリキュラムを減らしたら、学力が落ちた。だから、ゆとり教育はよくなかった!

単純に言うと、こういうことなのですよね。

でも、「学力が下がって、問題だ」と言うとき、それは具体的に何を示しているのか、イマイチわかりません。

「国民の知的レベルが下がって、問題だ」ということなのか、それとも、「うちの子の学力が下がって、問題だ」なのか。そして、学力が下がることは、そんなに問題なのか。

もちろん、下がらないに越したことはないですが、学ぶ内容を減らせば学力が下がるのは、ある程度当然のことで、「学力」よりも、「心のゆとり」がより大事だと考えたからこそ、そういうカリキュラムを導入したのではなかったのか。

どうもよくわからないのです。なんと言っても、ドイツ暮らしが長いもので・・・

ドイツは、先日書きましたように、実力社会で、義務教育も5年生から進路別コースに分かれるというシビアなシステム。落第もあるし、ある意味で大変です。しかし、その反面「子どもにあまり勉強させるのはかわいそう」という風潮もあって、塾も予備校もありません。

学校は午前中で終わり。夏休みも冬休みも宿題はなし。金曜日に宿題を出す教師は「とんでもない!」とPTAに糾弾され、幼稚園や保育園でも、読み書きや算数を教えるのはご法度。

やはりドイツでも、近年、子どもの学力低下が問題視されているので、日本その他の外国を見習って全日制の学校を導入しようという動きもあるのですが、やっとそれが一部実現しかかっている現在、「そんなに勉強させるなんて可哀想」派の巻き返しが起こっていると聞きます。

なんだか日本と正反対。どうも混乱してしまいます。

私自身の好みでいえば、子ども達には丸暗記式の詰め込み学習よりも、実体験を含めた総合学習により、本当の意味で学ぶ力をつけて欲しい。現時点での日本の学校での「総合学習」と呼ばれる授業が、期待するレベルに達しているかどうかは別として、ですが。(先生方も大変ですね、指導要領を急に変えられたのでは・・・)

それに、個人的に腑に落ちないことがあります。

土曜日も半日学校へ行き、夏休みも冬休みも宿題のドリルをし、塾にも多少は通い、学校の夏期講習なども普通に受け、受験戦争も経験した平均的日本人の私と、週5日午前中しか授業を受けず、休みにも宿題をせず、塾も行かず、受験戦争とも無縁だった平均的ドイツ人の夫では、延べ学習時間数は私の方がはるかに多いはずです。(大学へ通った年数は二人とも同じ)


なのに、夫の方が賢い!

なんだか、むなしくなりますね。私の青春を返せ!とは言わないけど、自分がやってきたことは一体何だったのだろう?と思わぬでもない。

そりゃ、単にIQの違いでしょ、って言わないで下さい。だったら余計、猫も杓子も詰め込み勉強をする意義はあるのかってことになります。

うーーーーーーん

「勉強なんてしたってしょうがない」って結論に達したわけではありませんよ、決して。勉強するのは、いいことだと思ってます。

だけどね~。本当にわからないです。社会の中で一般に「重要だ」とされていることが、実際どの程度重要なのか。

誰か教えてください。

  1. 2005/10/03(月) 23:38:37|
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石けんに関するいろいろ

今日の埼玉はいいお天気で、暑かったです。しかし、一日中家に籠もっていました。何をしていたかというと、子供達と三人で「ユニット折り紙」。三角や四角のパーツを組み合わせて、多面体を作ります。現在、夫が出張中なのですが、帰ってくるまでに家中を多面体だらけにして、パパをびっくりさせよう!というプロジェクトで、朝から晩まで三人で熱中しておりました。

作るといえば、先日、友達が「石けん作りを始めたい」と言うので、我が家で一緒に作ったんです。現在、乾燥中。このごろ周囲で、じわじわと石けん作りがひろまりつつあります。

私自身は、石けん作りを始めて一年ちょっと。今までに作ったものを友達に配って使ってもらっていますが、なかなか良いリアクションを頂いています。

かおりちゃんは、赤ちゃんに市販のベビーソープを使用したところ、赤ちゃんの顔に湿疹が出たが、ビアンカ製せっけんに変えたら治った、と言ってくれました。

みっちは、妊娠してつわりが始まると同時に急に肌が荒れて、市販のものを使うと痒くてたまらなくなったが、ビアンカ製せっけんにしたら治った、と。

みーちゃんは、石けん作りブームを知人・同僚に巻き起こしてくれました。

とても嬉しいです。

もちろん、
「せっけんを使っても、何も変わらなかった」という人はたくさんいるはずですし、なかには、私の耳に入って来ないだけで、
「ビアンカのせっけんにしたら、肌の調子が悪くなった」という人もいるかもしれないので(そうだったら、スミマセン)、その人によるとしか言えないのでしょうが、その他にも、こんな話が・・・

「娘が口中カンジダ症になったのだが、薬が効かないので、諦めて1年半ほど経過した。しかし、ある時突然治ったので、何が原因なのか考えてみたら、思い当たるのは歯磨き粉を合成のものから石けん歯磨きに変えたことくらい。もしかすると、それがよかったのかも」

これにはちょっとびっくりです。以前にこのブログに書いたことがあって、ブログ移転のドサクサで記事が消えてしまったのですが、私の夫の慢性喉荒れも、歯磨き粉をせっけん素材のものにかえてからよくなりました。

これを単なる偶然と考えればそこで終わってしまいますが、ひょっとすると、合成界面活性剤の入った市販の歯磨き粉を使うことで、口内のPHが最適に保たれず、その結果、余計な菌などが繁殖しやすくなるのかもしれません。

そして、石けんに関して、また新たな発見がありました。

「せっけんで髪の毛を洗うとゴワゴワになったので、やめた」という人が、結構いるのですが、私は全然ゴワゴワしないので、今ひとつそれがピンとこなかったんですね。それがやっと理解できました。

先週、思いつきで、久しぶりに髪の毛の裾のほうだけ、軽くパーマをかけたんです。パーマの後、美容院で合成シャンプーで洗髪してもらったのですが、翌日、家でいつもどおり石けん洗髪したら、

みごと、ゴワゴワ!

それも、パーマの当たっている裾の部分のみ。真っ直ぐなままの上の部分は、まったくツルツルです。

ということは、「石けんで洗うと、ゴワゴワ」は、石けんに問題があるのではなく、髪の毛の方の問題だと考えられます。髪の毛に残っているパーマ液の成分が石けんの成分と反応しているのでしょうか?それとも、パーマにより、髪の毛のキューティクルが痛んだというのが原因でしょうか?

やっぱり、不自然なことはやらないほうがよかったかな・・・

石けんのよさを盲信するわけではないですが、合成洗剤との違いは明らかにありますね。

気が向いた方は、是非実験してみてくださいませ。

  1. 2005/10/02(日) 21:57:29|
  2. 日常
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