わいるどわ~るど 

異文化好き好奇心人間の世界考察ブログ

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言語習得に関するメモ

記事にするほどまとまっていないのですが、言語習得についてちょっと思ったこと二点、忘れないうちにメモしときます。

「小さな子どもは何の苦労もなく、外国語を覚えることができる」

という主張がありますよね。子どもは母国語を覚えるのと同じように外国語を覚えることが出来るからだとか。それで、「外国語学習を始めるのは早ければ早いほどいい」「○歳までにやらなければ手遅れになる!」と考え方が出てきて、幼児向け英会話学校が繁盛したり、義務教育における英語学習導入を早めようという議論がなされたりします。

個人的には、「子どもは何の苦労もなく~」はちょっと違うぞと思い、また「早ければ早いほど~」もなんだか短絡的な気がしてしまいますが.....

しかし、「同じ言語環境に置かれたとき、大人と子どもの言葉のおぼえ方は違う」、これは本当だと思いますね。環境の諸条件が整えば、ほとんどの子どもは外国語を習得できる。大人の場合は......人によりますね。覚える人もいれば覚えない人も。

そこのところがどうも不思議。

人間には言語を習得する能力が生まれつき備わっていて、日本に生まれたら自然に日本語を覚えるし、アメリカに生まれれば英語を習得する。もちろん、饒舌な人と口べたな人という程度の言語運用能力の差は存在しますが、基本的には誰でも言葉を覚えることができる。

それが外国語となると、急に難しくなっちゃうのは何故?

日本で日本語を習得するのと、日本にいながら普段耳にしない外国語を勉強するのとではそもそも学習環境が違うので、同じように覚えることが出来ないのは当然だけど、たとえばフランスならフランスに一定期間住んだとき、子どもと大人ではフランス語習得のスピードが明らかに違い、また大人の間にも明らかな個人差がある。

「母国語を習得するのと、外国語を習得するのは、全然違うプロセスだから」
と言ってしまえば片付いてしまうことかもしれません。
「母国語をおぼえるときには脳のこの部分がこう働くが、母国語を習得した後に外国語を学ぶ場合には、この部分がこうなってああなるから、違ったプロセスで言葉が学習されるのです」とか、「何歳までは脳がこうだから外国語も母国語と同じように学習できるが、何歳くらいからはああなるから云々」という脳科学的説明も存在するのでしょうね。

物理的メカニズムのことはよくわかりませんが、モンテッソーリの本を読んでいたら、手がかりになりそうな説明を見つけました。そこに書いてあったことを簡単に言うと、

子どもと大人では、「自己」と「外界」との関係性が違う。大人は見たもの、聞いたことを「記憶」するが、子どもはそれらを「吸収」し、内面化する

う~む。大人は、体験したことを内面化しないのだろうか?いや、すると思う。でも、言われてみれば、子どもほど何でもかんでも自分の中に取り込んでいくわけではないですね。多分、生まれたばかりの赤ん坊は自分と外界との区別がついていないんだと思うけど、それが大きくなるにつれ、次第に物事を「客観視」する能力がついてきて、客観的に物を見れば見るほど、それを取り込んで「内面化」することが困難になる、とは言える気がする。

外国語学習にも当てはまるでしょうか。年齢が上がって来ると、外国語は「記憶の対象」となってしまい、自分の血肉の中に取り込んで行くのが難しい。

大人の間の語学習得速度(または質)に差が出て来るのも、言語を内面化しやすい人と、そうでいない人がいるってことなのかな?ま、それだけじゃないでしょうけど、一要因ではある気がして来ました。

だとしたら、抽象思考能力が発達していない幼児に英語のフレーズを叩き込むより、別のいろんな体験をさせて「内面化の感度を高める」ほうが効果的では、という気もチラッとしますが、これはもうちょと考えてみることにします。これがメモその1。

メモその2は「外国語の発音やイントネーション」について。

外国語を話す人の中には、ネイティブそっくりの発音やイントネーションで話す人と、文法や語彙の面では非常に正確なのに発音がジャパニーズな人といますよね。これって、「口の筋肉が柔軟」とか「耳がいい」とかに関わるものだと今まで思っていたのですが、どうもそれだけじゃないようだ....

近所に南ドイツ、バイエルン地方出身の家族が住んでいるのですが、彼らはものすごくバイエルン訛りなのです。それが私には不思議で。「どうしてネイティブのドイツ人なのに、そんなに訛りを引きずるのか?外国人でももっと現地の言葉に同化している人、たくさんいるのに」と。

あっ、そうか。訛りの強い人って、会話相手の言語にあまりシンクロしないんですね、きっと。

人と話していると、つい相手の話し方につられてしまう、人の文章を長いこと読んでいると、文体が移ってしまうっていう現象があります。自分は自分らしい話し方を貫きたいと思いながらも、ついつい、関西弁の人と話してるとつられて関西弁もどきになっちゃうとか。人のブログを読みふけっていた後にさあ、エントリーをと思うと、なんだか文体がその人のにソックリ!とか。

でも、そうならずに、常に自分のペース、イントネーション、言葉遣いなどを保てる人もいるんですよね。

これは、どれだけ相手の言語にシンクロするか(いい、悪いは無関係に)によるのではないでしょうか。

ま、ちょっとした思いつきです。間違っているかも。

以上、考察メモでした。


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  1. 2006/08/31(木) 19:24:26|
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「理屈」か「気持ち」か

フランス語はまるきりダメなんですが、こんな本を読んでみました。

日本語の森を歩いて フランス語から見た日本語学

「発話操作理論」という言語学理論に基づいて日本語を分析しているそうで、言語とは人間の外にあって、それをわれわれが符号や暗号を手渡すように他人に手渡すのではなく、発話主体である自分、そして発話の出来事の時間である現在を出発点にして、自分自身の存在を組み込んだ関係の網を構築していくのだ、と書いてあります。

これを読んだだけでは何のことやらチンプンカンプン。しかし、読んでいくうちに「それぞれの言語には、人間がどのように世界を構築していくが表れている」ということがなんとなくわかりました。

へえ~と思ったのは、こんな部分です。

「どうもどうも先日はたいそうご馳走になりまして・・・・」
「どうもどうも先日はたいそうご馳走になりまして、ありがとうございました」
この二つの文章のどちらがより丁寧か。

前者のほうがより丁寧であると、著者らは論じています。何故なら、「ありがとうございました」まで言ってしまうと、この件は「落着した」ことになってしまう。これに対し、「・・・・・・」としておけば、相手に対する感謝や負い目などが継続していることになる。

なるほど、そうかもしれません。

これを読んでふと思いついたのですが、約束の時間に遅れたことを詫びるとき、日本人は「すみません」の後に「電車が遅れてしまって・・・・・・」とだけ言うのではないかな。ドイツ人(フランス人も?)だったら、「電車が遅れたので、約束の時間に間に合いませんでした」まで言うと思います。それはドイツ語としては全くOKなのですが、日本語の場合には最後まで言わない方が「申し訳ない気持ち」がいつまでもふわふわとその場に漂っている感じがする。

終章に結論の一つとして、
「気持ち」を言う日本語、「理由」を言うフランス語
という記述がありました。

私も日頃から、「ドイツ語(欧米語?)では論理が重要、日本語では感情が重要?」と感じることが多いのです。そして、この本の以下のくだりを読んで「やっぱりそうか」と思いました。

フランスでは、遅刻したときには「すみません」と言うだけでは不充分で、遅刻した理由をはっきり述べなければならない。そうしないと、いい加減な人だと思われてしまう。

日本では逆に、理由をつけ加えると、くどくどと言い訳していると解釈されてしまう。潔く過ちを認めてお詫びした方がよい。


と、ここまでだと、「日本人とフランス人って違うのね~」で終わってしまいますが、ことはそう単純ではない。うちの場合。

子どもをバイリンガルで育てるということは、単純に言語を二つ習得させることに留まらず、状況いかんでは振舞い方をも二通り習得させることですよね。

ドイツ語を話すときには「理由をきちんと言いなさい!」と教え、日本語のときには「言い訳はするな!」と教える?子どもは混乱しちゃうかも。

うちの子ども達は理屈っぽいほうなので、あーだこーだと理由を言いますが、家ではそれを咎めることはしていません。でも、外でよその大人の人に対して同じことをやられると、かなり冷や汗~。

大人になれば適当に使い分けもできるようになるでしょうが、人格が形成される幼少期に使い分けを叩きこむことがいいことなのかどうか。論理的であることと、感情を優先させることのどちらがより望ましいか、親の価値観で躾けるほかはないんでしょうか。

しかし、親の私達ですら、いろんな文化の間を行ったり来たりしているうちに、次第に考えや感覚が変化してきますからね~。

言葉を表面的に教えることはそんなに難しくないけれど、その裏に潜む価値観をうまく伝えることは難しいです・・・・
  1. 2006/02/07(火) 16:38:20|
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ニュアンスの翻訳

私の本職は一応、翻訳業ですが、(いちおうとするのは、関係ないことにいろいろ手を出して、メインのことをサボりがちなもので・・・)たまに通訳もやります。

でも通訳はあまり向いていません。何しろ頭の回転が速くないので、スッスッと言葉が出てこないということもあるし、通訳の仕事のときには、「情報を別の言語に変換する」という作業の他に、「ニコニコする」かつ「ピシッとする」、そしてクライアントに気を遣うなど、同時にいろいろやらなくてはならなくて、トロイ私には荷が重いのです。

翻訳だと、何を着て仕事しようと、しかめっ面でキーボード叩こうと、全然構いませんし、
「あ~、わっかんないなーっ。ちょっと休憩~」
と、コーヒーを啜りながら、ブログ回覧してても怒られない。納期さえ守れば、誰にも何も文句言われません。

ですから、「通訳が得意」という人は私の憧れ。ニュースで首脳会談の様子が映り、首脳の後ろにしゃがみこんで黒子のようにお仕事をしている通訳者の姿を発見すると、
「あんなところで仕事ができるなんてすごいなあ」とか、
「椅子にくらい座らせてもらえないのかしら。あれじゃ、疲れるでしょ」とか、勝手な感想を抱きます。

国と国の間には、ご存知のようにいろんな摩擦があります。様々な「意見の相違」や「事実認識のギャップ」が存在するのでしょうが、私には難しいことはよくわかりません。

しかし、「言語変換者」のはしくれとして、いつも思うことは・・・・

どれだけニュアンスが伝わっているものなのかな~

ってこと。

政治の舞台で活躍される通訳者の方々の能力を疑うわけではありません。言いたいのは、翻訳って、情報の変換だけではないということ。

医学翻訳などでは、情報を正確に訳すことが重要で、下手なニュアンスなど出してはいけないことになっていますが、他の多くの分野では必ずしもそうではないです。むしろ、ニュアンスを伝えることが最重要とされる場合もあります。だけど、これが難しい。

ビジネス通訳のアルバイトで仕事場に行き、交渉が始まると、日本人クライアントの口から真っ先に出てくる言葉。
「よろしくお願いします」
まず、これを訳さなければなりません。
でも、「よろしくお願いします」っていう表現はドイツ語にありません。しかたないから、「お目にかかれて光栄です」とかなんとか言うわけですが、「よろしくお願いします」と「お目にかかれて光栄です」は同じではない。

同じ表現がなかったら、あるものの中から一番近いと思われる表現を探して代用するしかない。ニュアンスは多少違いますが、無理やり直訳しても奇妙なだけですから。

そのくらいなら、まあ別に問題は起こりませんが、一番嫌なのは冗談の通訳です。たいてい交渉中ではなく、みんなでお昼ご飯を食べたりしているときに、場を和まそうとしてか、いきなりどちらかが母国語でジョークを言う。そして、
「はい、訳して」
という顔でこちらを見るんです。ジョークの通訳ほど大変なことはないのに、本来の仕事時間ではない昼食時にそのような難題を気軽に振られると、ほんと焦ります。

日本人のジョークは主に駄洒落なので、訳しようがないし、ドイツ人のジョークは嫌味っぽくて、日本人はびっくりする。

ここで機転の利く通訳者なら、適当に別のジョークに摩り替えて乗り切るのかもしれませんが、咄嗟にオリジナルジョークなど、とても思いつきませんもの。困りますヨ。

適当なことをひとことふたこと言って、スルーしちゃいます。(ゴメンナサイ)

もちろん相手は笑いませんが、私、知りません~。

単なる情報の変換なら、さほど苦労しませんが、笑いを取るということは、聞く人に「可笑しい」という感情を呼び起こす必要がありますから、そこにはニュアンスの翻訳が必要になるのですね。

でも、この「ニュアンス」って日本人同士の間でもうまく伝わらないことがあって、「そんなつもりで言ったのじゃありません」ってことが多々ありますよね。同じ言語を使っている者同士ですらそうです。

他言語話者の間では何をかいわんや、です。

それでも、当人同士の間のコミュニケーションで生じた誤解なら、「そういうつもりじゃなかったのよ~」って直接言えばいいことです。しかし、言葉の通じない相手には、通訳者を通して弁解しなければならない。

通訳者がニュアンスを100%理解したかどうかの保障なんてない。通訳者も人間ですから、誤解することだってあるでしょうに、通訳という立場上、「てっきりこういう意味だと受け取りました」は許されないのが厳しい現実です。

想像しただけで、怖ろしい・・・



  1. 2005/10/21(金) 00:09:20|
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日本語とロールプレイ

ルルル、ルルル~。我が家の電話が鳴ります。私は、夫との会話を中断して、受話器を取ります。
「はい、○○です」
「こちら、XX事務所の△△と申しますが、○○ビアンカ様でいらっしゃいますでしょうか」
その途端、私の声のトーンが高くなる。
「あっ、はいっ。お世話になっております~」

日本に来たばかりの頃、夫はそれを不思議がりました。
「どうして、急に声の高さを変えるの?」
うーん、どうしてでしょう。これって、いわゆる「営業用の声」というものなのでしょうか。

ドイツで、ドイツ語を使って生活していた頃を思い返してみると、相手によって声の高さを変えるということは、あまりしていなかった気がします。夫と普通の声で会話をし、電話が鳴ればそのままの声で電話に出、相手が誰かわかっても、そのままの声で応対する。わりと、そんな感じだったと思う。夫が電話で話しているのを聞いても、その口調から、友達と話しているのか、それとも母親か、上司かは大体察せられるけれど、声の「高さ」が特に変わることはないです。

これって、何なのでしょうね。

試しに、「誰とでも普通の声の高さで話す」という実験を試みました。でも、どうもうまくいかない。「奥様でいらっしゃいますか?」と、相手に営業用の高いトーンで話されると、それにつられてしまうのですね。無理して平常の声で会話を続けようとすると、なんだか無愛想な応対になってしまって、相手に失礼な感じすらします。

日本語の子供用ビデオを見ていたときに、気づいたことがあるんです。それは、番組に出て来るおにいさん、おねえさんの声がとても高いこと。ドイツでも、子ども番組に出て来るおにいさん、おねえさんの話し方は、たとえばニュースキャスターの話し方と同じではありません。でも、子ども番組だから声がうんと高いということはありませんでした。しまじろうに出て来る「みみりん」のようにキンキン声を張り上げる登場人物を、私は見かけませんでした。

どうして日本語の子ども番組では、登場人物がそんなに高い声出すんだろう?童謡のカセットを聴いていても、歌っている人の声は、つくり声なのです。謎でした。

もしかして、日本語を使って生活するということは、そのときの状況に応じて、ロールプレイをすることなんじゃないだろうか。

大学生のサークルの部室。2年生のA君が、椅子にふんぞり返って座っている。
「おい、ヤマダ!お前、ちょっと弁当買って来い!」
1年生のB君に命令する。そこへ、3年生のC君が入ってくる。するとB君は急に姿勢を正し、
「あっ。C先輩!お食事はお済みですか?まだでしたら、Aに買ってこさせましょうか」
口調も声もガラッと変わる。

先輩・後輩という関係じゃなくても、人は日常生活において、かなりいろいろな自分を使い分けています。八百屋では、「ちょっと、おじさん!それ一山頂戴」なんて、くだけた口の利き方をすることもあるけど、呉服屋さんで反物買うときにはそういう話し方はしないでしょうね。働いている店でお客さんに接するときと、自分が客としてサービスを受けるときでも、話し方はきっと違うでしょう。

そのときの状況にふさわしい自分を演じているのでしょうか。

英語やドイツ語で話すとき、相手が「教授」や「社長」のような社会的身分の高い人であっても、ある程度、対等に話しているという感じがあります。それは、欧米語には日本語にあるような敬語表現がほとんどないこととも関係しているのでしょうけれど。

いつ、どこで、誰といても、私は私。ドイツでは「立場」というものを、それほど意識することはありません。(そういえば、ドイツ語で「立場」ってどう言うのかなあ?)

日本ではいろんな「声」を持っている自分。考えてみれば、おもしろい。
  1. 2005/10/17(月) 22:28:39|
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泥棒の気持ち

ドイツでは高速道路は無料です。

そのため、日本の高速道路の料金所でお金を払うたびに、夫はつい、ヒトコト言いたくなってしまうようです。今日も、ほんの数分走って400円。

お金を払ってふたたび走り出すとき、彼は日本語で言いました。
ドロボウハ、400エン、モラッタ!」
思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「それを言うなら、『泥棒に400円、盗られた』だよ」

「盗られた」だと、盗まれた人が迷惑してる、困ってる、怒っている気持ちに発言の重点がある。
「泥棒はもらった」だと、泥棒さんの嬉しい気持ちに重点が移ってしまいます。

~に・・・れる(だから迷惑~)

これがドイツ語にはありませんから、使えないのは仕方ないですね。

「息子にチョコレートを食べられた」
「妻に風呂掃除をさせられた」
「娘にシールを買わされた」

いやだよぉ~、迷惑してるんだよぉ~、という表現法がありません。ドイツ語だと、「私は盗られた」と「泥棒は盗った」のニュアンスの違いがほとんどない。考えてみると、他にもドイツ語でうまく言い表せないことがいろいろあります。

~ちゃった

「太った」と言えば、太って嬉しいのか、悲しいのか、どうでもいいのか、よくわかりません。でも、「太っちゃった」というと、それが遺憾なことなのだとわかります。

~てもらう、~てあげる、~てくれる

これもドイツ語ではみな同じ。

~て頂くなんてのももちろんない。

嬉しい、悲しい、遺憾だ、迷惑だ、有難い、などという感情をドイツ語で表すには、
「嬉しいことに、Aさんは私にこれを与えました」
「悲しいことに、妻が死にました」
「遺憾なことに、太りました」
「迷惑なことに、上司は私にコピーをさせました」
「有難いことに、Aさんは私に本を貸しました」
と、感情を表す言葉をわざわざ添付しなければならないですね。

日本語って「感情」が文法に組み込まれている言語なんだなあ~。

「何がどうなった」という事実だけでなく、その状況が当事者に沸き起こす感情に大きなウェイトが置かれるのが日本語だと言えるでしょうか?


  1. 2005/10/15(土) 15:57:29|
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コミュニケーション力

先日、子供の言語習得についてエントリーしましたところ、多言語に堪能で、外国語学習や言語学の理論に精通されている澁澤寅彦さんより、子供をバイリンガルで育てることの長所や問題点についてアドバイス頂き、また関連図書をお薦め頂きました。

そのうちの一冊、市川力 著 「教えない」英語教育 という本を読んでいたら、面白いことが書かれていました。

OECD国際学習到達度調査(国際的にはPISA試験と呼ばれることが多いようです)というのがありますが、2004年度のこの試験において、日本の子供の国語読解力は前年度の8位から14位に下がったのだそうです。

いえ、それは面白くないんですが・・・

どういう点がまずかったのか、というのが興味深いんです。2004年度の試験で出題された問題のうち、正解が少なかったのは、「落書き」と題された問題だったそう。

「落書き」について、賛成派と反対派の2通の手紙を読み比べ、どちらに賛成するか、そしてその理由は何か、自分の言葉で論じよという内容。

著者によると、この問題ができない子が多かったのは、「他者の意見をしっかり分析したうえで、自分の意見を論理的に構成し、読み手を納得させるような文章を書く力」が日本の学校教育では充分に養われていないことを表すのではないか。

なるほどです。振り返ってみると確かに、そういう訓練はあまり受けてこなかった気がしますね。

コミュニケーションの柱。それは、考え、聞き、話すこと。
そのうちの「考える」。いろんなレベルがありますが、国際的には「論理的に考える」ことが重要だとみなされているんでしょうね。

そして「聞く」。これについては、私、ちょっと考えがあります。

あくまで、ドイツと比較してのことに過ぎませんが、日本の国語教育では「聴解力」があまり重視されていないのではないか。そう、感じるんです。

私がドイツ語を勉強したのは、ドイツの大学の外国人向けドイツ語講座でした。授業では頻繁にテストがあったのですが、その内容は「文法」「読解」「聴解」の三本立て。そのうちの聴解試験ですが、いわゆる日本式の「ヒアリング問題」とは随分趣向が違っていました。

日本式ヒアリングだと、まず短いお話を聞き、その後で内容についての質問文が読み上げられます。そして、答えの候補がいくつか読み上げられ、その中から正しいものを選ぶ。そうですよね?

これに対し、ドイツ式聴解試験には二つの種類がありました。それは「書き取り」と「要約」です。書き取りというのは文字通り、聞いたことをそっくりそのまま書き出す試験。内容は理解してもしなくても、とりあえず構いません。

なあ~んだ、随分簡単だね、と思うでしょう。でも私、これにかなり手こずってしまいました。日本式ヒアリングの場合、すべてを一語一句正確に聞き取っていなくても、要点の部分さえおさえれば大丈夫です。全体をまーるく理解すればOK。しかし、書き取りの場合、耳をそばだて、全神経を聴くことに集中させていなくてはならない。ちょっとでもボケーッとする瞬間があってはダメなんです。

いや~、大変大変。

そしてもう一つの「要約」。こっちは多少聞き漏らしても問題ありません。全体的な内容が把握できれば。でもやっぱり簡単ではありませんでした。なぜかというと、理解しただけではだめで、それを自分の言葉で論理的にまとめなくてはいけない。自分の言葉っていうと楽勝に聞こえますが、ドイツ語でです・・・まだ、自分の言葉になっていませんから~。

まったくえらいこっちゃでした。

そのとき、「あ~、私は今までこういう訓練、受けて来なかったんだな~」と、つくづく思いました。(自分の能力のなさを教育のせいにしてはいけないかもしれませんが・・・)

悪戦苦闘して、どうにかこうにか入試にパスして、やがて大学生活が始まったんですが、初めて講義を聞きに行ってふたたびボーゼン。だって、ほとんど板書してくれないんですよ、ドイツの教授って。90分間、ひたすら喋るだけ。辺りを見回すと、みんな黙々とノート取ってます。耳で聞いた情報をせっせと文字化してるんです。す、すごい・・・・

ドイツ人って耳がいいんだな~、なんて感心して見てましたけど。

考えてみれば、日本人ってあまり耳を使わないかも知れません。講演会や説明会では必ず資料が配られて、説明する人の顔も見ずに、みんな資料読んでるし。

漢字文化ですから、どうしても視覚情報に頼りがちで、耳から情報を得るのは不得手なのかもしれない。

コミュニケーションの重要な要素である「論理力」と「聴く力」、日本人は国際水準からするといまひとつってことなんでしょうか。

もちろん、国語学習というのはその国で生活する上で必要な能力を養うのが目的ですから、外国でああだから日本も・・・ということではないと思います。他の部分でよその国の国民より優れている可能性も充分ありますし。

だけど、お仕事などで欧米人とコミュニケーションを取る必要のある人にとっては、ちょっとは参考になるかな?と思って・・・

最後の「話す」については、まだ考えがまとまらないのでまた今度。
  1. 2005/09/23(金) 21:51:35|
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コミュニケーションに関する我が家の悩み

我が家では、日常的に日本語とドイツ語が飛び交っています。でも、両方の言葉を充分に話すのは、私と息子だけ。夫は日本語がダメで、娘はドイツ語がダメ。夫がドイツ語で言うことを娘は理解しますが、日本語で返事をするので、夫は理解しない。だから、私か息子が通訳しなければなりません。

ちょっとメンドウですが、それでも家庭生活は成り立っています。家庭内で通訳をしても、ギャラはもらえません。でも、夫に「オレは語学の才能がないからさ~。頼むよ、あんたたちには才能があるんだから」とかなんとか、おだてられて無償奉仕してます。

でも、ときどき、3ヶ月に一度くらいなんですが、
「なんだよー。ふざけんなー!!」
って、通訳を拒否したくなってしまいます。

「ドイツに住んでいたときは、誰も私に通訳なんてしてくれなかったよ」
「言われたことがわからなければ、自分で辞書を引いて調べたよ」「日本の衛星放送だって、高いからと見せてもらえなかったし、日本語の新聞だって取ってなかったよ」
「そして、そのことで私は文句を言わなかったよ」

と、口から出ちゃうときがある。

すると夫は、
「そんなこと言ったって、オレが語学苦手なの知ってるでしょ。あんたが苦労したのは認めるよ。でも、もうすでに習得したんだから、出し惜しみしなくてもいいじゃん。自分が大変だったからって、人にまで同じ苦労を強要するなんて了見が狭いよ」

うう・・・確かにその通りです。

でも、私だって、私だって・・・・

「ドイツ語話すの面倒くさあ~い!!」
ってときはあるんですよ。

ドイツに住んでいた頃は、子供と話すとき、日本人の知人と話すとき以外はずっとドイツ語でした。だから、私の脳はデフォルトでドイツ語に設定されていて、必要に応じて日本語に切り替えていました。ドイツ語に設定されているので、夫とドイツ語で話すことは苦痛ではありませんでした。

ところが、日本に来たら、夫以外のすべての人と日本語で話すので、脳はデフォルトで日本語になっています。疲れていて眠かったりすると、込み入った話をドイツ語でするのが面倒です。

夫に何か質問されて、私がいい加減に答えると、
「なんでちゃんと喋んないのっ」と怒られます。
「だって、ドイツ語喋りたくないんだもん」
「そういう意地悪やめてよ」
「意地悪じゃないよ」
「意地悪だよっ」

だからね、デフォルトが・・・と、夫に理解してもらいたくても、それをドイツ語で言わなくてはならない。それが面倒。

あなたが「日本語をおぼえたくない」というのを私は受け入れてるでしょ。だったら、私が「ときにはドイツ語を喋りたくない」というのも受け入れてください。

と、いうこともドイツ語で言わなければならない。

「なんで私ばっかりっ!」

正直、ちょっと嫌になります。

夫は、いまだかつて一度も辞書を引いたことがありません。わからない単語をメモしたこともありません。日本語の本も読んだことがありません。道路標識もローマ字でなければ見ません。

お喋りが大好きで、日本人も大好き。だから結構、人とは喋ります。でも、間違っても気にしないタイプなので、何年経っても同じ間違いを延々と繰り返しています。

日本語能力試験の前には机にかじりついていますが、勉強の仕方にすごく問題があります。漢字の読み問題は出るけど、書き問題は出ないというので、私に漢字を一つ一つカードに書かせ、それを眺めているだけ。

「あのさー、漢字は書いた方がおぼえるよ」
そうアドバイスしても、
「いいのっ!書きは出ないんだから、無駄な労力使いたくないよ」
試験には受かりたいが、無駄なエネルギーは1カロリーたりとも消費したくない。そう思っているらしい。

まあ、それでもいいでしょう。私がとやかく言うことじゃない。彼が日本語に興味がないのは仕方がないことで、興味がないことをやれなんて言いません。できるようになって欲しいとも、そんなには思わないです。

だって、私だって、いまだにビデオの録画の仕方を覚えてない・・・夫がいなければ、ブログに写真もアップできない・・・ヒーターのタイマー設定もできません。

でも、「才能がないから」で片付けられると、なんだかな~。もしかしたら、本当に才能がないのかもしれないけど。私の方がちょびっとは「才能がある」かも知れないけど。

もしも私が「語学の才能がない」と言って、辞書も引かず、子供の学校の先生とも話ができず、ゴミだしカレンダーも読めず、ニュースについて感想も語れず、あなたの両親から電話がかかってきても伝言ができないまま、ずっとドイツに暮らしていたら、あなた困ったでしょう?

と問いかけたいけれど、これもドイツ語で言わなきゃ。

「そんなにグダグダとドイツ語で文句が言えるのなら、オレの最初の質問にドイツ語で答えるくらい、なんでもないじゃないか」

はい、その通りです。

ごめんなさい。ちょっと日本語で愚痴ってしまいました・・・






  1. 2005/09/22(木) 11:42:07|
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子供のための語学レッスン

語学習得に関する過去二回のエントリーにご意見をお寄せくださった皆さま、ありがとうございました。

まだまだ試行錯誤の真っ只中にいる私の、素人意見に過ぎない記事でしたが、他の外国語学習者や複数言語で子育てをしている方達のお話はとても参考になります。

しつこいようだけれど、もう少しだけ、言語習得について。

外国語学習を始めるのは早ければ早いほどいいのか

どうなんでしょうか・・・今まで見、聞き、体験したことから判断すると、そんなに早いうちから始める必要はない気がしていますが。

我が家の場合、バイリンガルで育てるよりどうしようもないのでそうしています。夫は日本語では充分なコミュニケーションが取れないし、私は一応、ドイツ語だけでもなんとかなりますが、それは大人が相手の場合であって、「いないないばあ」とか「いたいのいたいのとんでけ~」のような赤ん坊への話しかけ言葉をドイツ語で知りませんでしたから、子供には日本語で話しかけるよりなかったんです。

また、子供が小さいうちは、こちらが少々難アリのドイツ語(夫の場合は日本語)で話しかけていても問題はありませんが、子供達が成長するに従い、子供に言語力で追い抜かれてしまい、バカにされるのでは・・・という危惧もありました。

それから私の場合は、「外国に住んでいるのだから、せめて自分の子供とくらい母国語で話したい!!」というエゴもあったんです。

ですから、「言葉を覚えたら子供の将来に役立つから」と意図して二ヶ国語で育てることを選択したというよりは、そうせざるを得ない状況だった。

日本でもドイツでも、「なるべく早いうちから外国語を!」と考えて、幼児期から子供に英会話のレッスンを与える親が増えています。でも、うちの場合は、日本語とドイツ語だけですでにあっぷあっぷの状態なので、これ以上は無理!と、英語はまだ全然やらせていません。日本で娘の幼稚園(保育園)探しをしたときにも、「英会話の時間がないこと」を条件にしたほどです。

時期が来たら、息子にも娘にも英語を是非覚えて欲しいとは思っていますが・・・

「英会話はできるだけ小さいときから始めたほうがいいか」

これについては、私には中学生くらいから始めたので充分な気がします。というのは、言語というのはいくら教え込もうとしても、その時点での脳の発達レベルを超えたことは決してできないはずだから。

小さな子に外国語で繰り返し話しかけていると、言われたことを理解するようにはなるでしょうが、所詮一歳児は一歳児のレベルのことしか理解できないし、話すこともできません。つまり、零歳児からレッスンを受けさせても、進歩は極めてゆっくりで、その子が例えば15歳になったとき、13歳から英会話を始めた子にあっさり追いつかれてしまう可能性があるんじゃないかな、と思うんです。

完全なるバイリンガルを目指すのではなく、基本はあくまで日本語で、プラス英語も通じるレベルをということなら、もっと大きくなってからでも大丈夫じゃないでしょうか。赤ちゃんにフラッシュカードを見せて覚えさせる必要はないんじゃないかなあ。

じゃ、小さい頃からやっても無駄ってこと?

矛盾するようですが、無駄ではないと思います。幼児に外国語レッスンを受けさせても、高度な語学力が身につくことはないでしょうが、外国語の音に慣れ親しむことで、聴く能力はきっと発達するし、外国語への不安や抵抗がなくなれば、それだけでもプラスでしょう。少しでも外国語の音を拾った経験があれば、もっと大きくなって本格的に学習するときに随分違うのでは、とも思います。

まとめますと、こうなります。

「小さい頃から外国語学習を始めるのは無駄にはならないけど、そんなに焦る必要もない。できる環境があるのなら、子どもの負担にならない程度に楽しくやれば、それが理想的」

とは言ってみたものの・・・確信はないです。

  1. 2005/09/11(日) 21:33:03|
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外国にいれば自然に外国語ができるようになる?

昨日の続きです。

今度は、「外国に行けば、何もしなくてもその国の言葉がペラペラになるかどうか」について。

結論から言うと、「ならない」と思います。

「マリコさんはアメリカに半年住んだら、英語がペラペラになって帰って来た」

そんな話をよく聞きますね。だから、「外国に住んでいた=外国語がペラペラ」と一般的に思われがちですが、実際にはそういうわけでもなさそうです。

マリコさんが英語を喋られるようになったのは、何もしなくてもそうなったのではなくて、何かをしたからそうなった。何もしなければ、喋れるようにはならない。いろんな例から、私はそう考えています。

一例ですが、ドイツに住んでいたある日本人家庭の息子さんの場合。両親ともにドイツ語は話さず、家では日本語のみのご家庭です。その子は三歳まではドイツ語にほとんど触れることはなく、おうちで両親と日本語で会話し、近所の日本人のお友達と日本語で遊ぶ毎日でした。

三歳になり、地元の幼稚園に通い出したのですが、卒園する頃になっても、彼は相変わらずドイツ語を理解しませんでした。というのは、幸か不幸か、同じクラスにもう一人日本人の子がいたので、いつもその子と二人で日本語で遊んでいたようなのです。ドイツ人の先生に「さあ、これから皆でお絵描きをしましょう」とか「ここに並びましょう」とか声をかけられることは勿論あったはずですが、そういう日常的なフレーズすら、彼は理解しません。言葉を聞いて行動するのではなく、周りの子が絵の道具を取り出したり、並んでいるのを見て、「そうするのか」と判断し、行動していたらしい。

とうとう卒園が近づき、小学校入学のための検診を受けることになったのですが、あまりにドイツ語がわからないので、「この子は小学校に入ってもやっていけません。入学を一年遅らせて、まずはドイツ語を練習させたらどうですか」と医者に言われてしまった。さあ、大変!両親は慌てて家庭教師をつけ、必至で息子にドイツ語を覚えさせようとしました。

もう無理やりというかんじで、入学させたのですが、あ~ら不思議。学校へ上がった途端、急にドイツ語を覚えだし、あれよあれよという間にドイツ人の子に追いついてしまった。

これは、一体何を意味しているのでしょうか。

幼稚園時代、彼はドイツ語を覚える必要性をまったく感じていず、ドイツ語が聞こえていても「自分には関係のない言葉」としてシャットアウトしていたのかもしれません。しかし、学校に入ったことで、ドイツ語を「関係のある言葉」と認識し、インプット作業を始めたということかな?

その子に限らず、大人でも子供でも、長年外国に住んでいてもその国の言葉を話さない人は結構います。その言語を話す必要に迫られていなかったり、話したいとも別に思っていなければ、いくら音として聞こえていても単なるBGMとして流れているだけで、情報としてインプットされないのじゃないでしょうか。

ですから、「外国に住んで、その言語の音をシャワーのように浴びれば自然にペラペラになる」わけではなく、吸収しようという意思がなければ、喋られるようにはならない。

これも、個人的見解ですけど・・・

  1. 2005/09/09(金) 13:19:10|
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子供の言語習得

子供達を日本語とドイツ語のバイリンガルで育てているので、外国語学習について、いろいろ質問されることがあります。

「外国語学習は小さいうちから始めたほうがいいんだろうか?」
「子供はなんの苦労もなく外国語を習得するというのは本当?」
「文法よりも会話中心に勉強したほうがいいの?」
「シャワーのように外国語の音を浴びているだけで自然に話せるようになるの?」

私、言語学の知識もそれほどないし、語学教師でもないのですが、これから何回かに分けて、自分自身と家族の限られた言語体験から感じることを書いてみることにします。

まず、「子供は外国語に触れる環境にいれば、何の苦労もなく、自然に言葉をおぼえるかどうか」

「子供は自然におぼえる」、というのは大体その通りだと思います。机に向かって文法書を開いたり、単語の書き取りをしなくても、その言語環境に置かれれば、母国語を習得するのと同じようなプロセスを経て外国語を習得していくようです。

だけど、「何の苦労もなく」かどうかは・・・

うちの息子の場合。ドイツで生まれ、最初から夫は息子にドイツ語で、私は日本語で話しかけました。二ヶ国語で話しかけられたせいなのか、息子は言葉が遅く、満二歳になるまでマトモなことは何も言いませんでした。二歳児検診の時にも、「この子は言葉が遅い」と言われ、母子手帳にもそう書かれてしまった。

ようやく喋りだしたのは主に日本語。夫の言うことも理解はできるようでしたが、母親の私といる時間のほうが長いので、出てくるのは圧倒的に日本語でした。ところが幼稚園に通いだしたら、突然ドイツ語が伸び、日本語はダメになったんです。発音は全く普通のネイティブの日本語ですが、文法というか言い回しが、ドイツ語をそのまま訳したようで変です。おかしな言い方をしたときは、私が自然な日本語に訂正するように気をつけていましたが、私自身も普段、日本語をあまり使わないので、息子の変な日本語につられて何だかヘンチクリンな日本語になってしまったり・・・

そのうち、不自由な日本語で話すことに嫌気がさしたらしく、息子は日本語を一切使わなくなってしまいました。私がいくら日本語で話しかけても、帰ってくるのはドイツ語ばかり。あ~、このままもう日本語は話してくれないのかなあ~と暗澹たる気持ちで過ごす日々が続いたのです。

せっせと日本語のビデオを見せたり、日本人の子供のいるところへ連れて行ったり、悪戦苦闘すること約一年。再び、日本語が出てくるようになりましたが、ドイツ語との差は歴然としていました。振り返って考えてみると、日本語を拒否していた時期は、ドイツ語が飛躍的に発展した時期でもありました。ドイツ語のほうがひと段落したところで、ようやく日本語を習得する余裕が出てきたのかもしれません。

幼稚園を卒園、小学校へ一年通ったところで日本へ。息子の当時の日本語は、かなり怪しいものでした。先生の言っていることがちゃんと理解できるか、授業についていけるか、最初はかなり心配でしたが、約半年で周囲に追いつき、四年生の現在は、平均的な日本人の子供よりも達者なくらいです。

で、ドイツ語のほうはといいますと・・・喋るのは全くOK。読むのもまあ、なんとか。でも、書くのは、ちょっとこのままではヤバイってレベルです。

結果を言いますと、読み書きはともかく、喋ることに関しては、現在は完全なバイリンガルの状態に達しています。でも「何の苦労もなく」ではなかったですね。本人、随分苦労していました。私もうんと苦労しました~。

次に、娘のケース。生まれたのはドイツですが、三歳で日本へ来たので、ドイツ語は赤ちゃん期レベルで止まってしまっています。日本語はベラベラのべラ。夫はドイツ語で話しかけていて、娘も理解はできているようなのですが、喋るのは難しいみたい。日本語とドイツ語のチャンポンで話すか、おっそろしい文法でドイツ語を話します。疲れているときにドイツ語を強要すると、キレる。この人も相当苦労してますよ~。

だから、「子供は苦労なく」っていうのはどうなのかな?中にはそういうお子さんもいるかも知れませんが・・・

根気よく続けていれば、バイリンガルに育てることは多分できると思います。でも、バイリンガルへ到達するまでの道のりは険しい。

というのが私の個人的な見解。
  1. 2005/09/08(木) 23:55:07|
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