わいるどわ~るど 

異文化好き好奇心人間の世界考察ブログ

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理性と情緒

世の中には、理性的な人と感性豊かな人がいると思うけれど、自分がそのどちらに属するのか、よくわかりません。

すでに何度も書いていることだけれど、日本のメディア報道を見ていると、何かの出来事について「可愛そう」とか「けしからん」などの情緒が前面に出ていると感じることが多く、それに違和感を持つ自分は理屈っぽいのかなあという気がする。

でも、このブログに自分が今まで何を書いて来たかよく考えると、結構、心とか精神性について多く語っているから、私ってやっぱり情緒的なのかしらとも思う。

日本人は本当に情緒的なのか、ということも、よく考えるとやっぱりわかりません。ドイツ人から見れば日本人は曖昧で情緒的に見えるだろうけど、たとえば日本人よりも感情が豊か(そうに私には見える)韓国人などからすれば、感情に乏しくクールに感じられるのかも知れないですね。

理性的な人にとっては、根拠なく物事を判断することは正しくないだろうし、感情豊かな人にとって、理屈で物事を割り切るのは正しくないんだろうな。もちろん、理性だけの人というのはいないし、感情だけの人もいない。あるのはどちらかへの傾向なわけですが。

「理性」とか「情緒」って何なのだろう?と、考えてみたくなりました。人と話したり、ネットに「理性」「情緒」と打ち込んで検索してみたところ、いろいろな意見が見つかりました。

一つは、「西洋では理性が重要視され、人間性が軽んじられて来た。日本では理性よりも人間性が重んじられる」という論調。これは私には意外です。理性VS人間性という考え方は私にはなく、人間性には理性の力も含まれるのだと思っていますから。しかし、「あの人は頭はいいかもしれないが、人間性がね....」という批判フレーズを聞くのは稀ではないので、頭がいい(理性的という意味なのでしょうか?)ことと人間性が高いことは結びつかないと、一般的に認識されているのかもしれない。(それにしても、西洋人は人間性に価値をおかないというテーゼって、どうなのかなあ~)

もう一つは、「感情は大切だけれど、感情ばかりでは社会は破綻するので、ときどき論理的に考えることが必要」という意見。これは確かにそうだね、と思いました。家族に対してギャーギャー文句を言った後で、冷静になって考えてみたら、なんであんなことで怒ったんだろ?大人げない、と反省しますものね。

しかし、逆の意見もありました。「論理は万全ではない。世の中には論理として正しいことはいくらでもあって、その中からどれを選択するのかを決める基準となるのは情緒である
う~ん。これもなるほどだなあ。「論理的に完全である」ことは「正しい」ということではありませんね。「私のやっていることは間違っていない。何故なら、これこれでこうだから」と論理づけることは、論理構築能力が備わっていれば、いつだって可能なのではないか。

だからつまり、人間には「理性」と「情緒」の両方が必要だっていう、面白くもなんともない結論に落ち着いちゃうんですけど。

感情をコントロールするために理性が必要で、特定の論理を正しいと思い込む危険性から人間を救うために情緒が必要である、と言えるでしょうか。

ところで、ある行為が「人間的に正しい」かどうかを判断するのは、理性なんでしょうか、情緒なんでしょうか。やっぱり両方なのかな。


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  1. 2006/07/17(月) 05:15:11|
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方言が好き

高校までは北海道で育った(一年間のアメリカ留学を除く)私ですが、高校卒業と同時に上京してきました。一人娘を平気でアメリカへ送り出しておきながら、父は「東京は危ない。心配だ」と言って、カトリックの女子寮に私を入れました。(私はカトリックではないのですが)

寮に引っ越したのは大学の入学式の数日前でしたが、まだ誰もいませんでした。いえ、正確には、私の他にもう一人の学生が同じ日に入寮してきました。彼女は奄美大島出身。日本の端と端からやって来て出会った私と美奈子さん。たった二人しかいないのですぐに打ち解けて、他の人たちが来るまでの数日、お互いに部屋を行き来していたんですが、話をしていて驚くことがありました。

ダンボールから衣類を出してタンスに入れる作業をしていたときのこと。
「あら、どうしたの。こんな薄い洋服ばかり」彼女が言うんですよね。
私の荷物には薄いブラウスとか半袖のTシャツばかり入っていました。だって、当然でしょ。北海道と違って内地は暑いんですから。
「何をいうのよ。本土は寒いじゃない」
美奈子さんのダンボールを見せてもらうと、オーバーや厚手のセーターでぎっしり。一体どうしたの~と私は唖然。4月だというのに、手袋やマフラーまで入ってます。
「奄美大島でも手袋って必要なのぉ~?」と私が大声を出したら、
「もちろん、奄美でも手袋つけるわよ」と。
それを聞いて、再びびっくり。手袋って「つける」ものなんですか?

私、手袋は「履く」ものだと思っていましたから。(爆)


ええ。北海道では手袋は「履く」んです。「つける」のはブローチとかじゃないでしょうか。のっけから異文化体験してしまいました。

こんなふうに私の東京生活は始まったのですが、まもなく落ち込むようなことを次々に体験することになったんですよ。というのは、言葉が通じなかったんです。
「私って、日本語と英語のバイリンガルよ~。うふ」って思っていたのに、どうやらそれは思い込みであったらしいのです。バイリンガルはバイリンガルでも、北海道弁とアメリカ西海岸弁のバイリンガルだったらしい。標準日本語はまだマスターしていなかった。

もちろん、人の言っていることはちゃんと理解できるのですが、こちらが話すと、わかってもらえないことが結構ありました。自分が今まで話していた言葉が方言だったなんて全然知りませんでしたから、「なんで通じないの!?」って不思議で。

「これとそれ、ばくって~」と言ったら、「は?」と変な顔をされた。
「ばくる」って、「交換する」って言うんですね。

「これ、いたましいから取っておこう」と言ったら、また「え?」
「いたましい」って、「もったいない」って言わなくちゃならないのね。

「これはもう要らないから、なげる」は「これはもう要らないから捨てる」
「目にゴミが入っていずい」は「目にゴミが入って、異物感がある」

まだまだたくさんありますよ。北海道には方言がないなんてよく言われるから、油断してましたね。その後一年くらいで標準語マスターしましたけど、私の母語はやっぱり北海道弁です。現在は埼玉に住んでいるので、なるべく埼玉人らしい話し方をするように努力していますが、北海道の母と電話で話すときが一番ほっとします。子ども達は埼玉弁です。ときどき息子に、「お母さんが家で変な言葉使うから、学校で方言と知らずに使っちゃってみんなに笑われたよー」と文句を言われて、「え?埼玉ではそういうの?」ってことがいまだにあります。

ドイツでは「高地ドイツ語」と呼ばれる標準語を話せることイコール教養がある、という考え方があって、方言丸出しで話す人を「あの人はドイツ語もろくに話せない」と悪口言ったりするようですが、私は方言が好きです。ずっと一つの土地に住み続けるのなら、方言しか話せなくても別に構わない気がするんですが、どうでしょうか。

普段は標準語ないしは埼玉弁で日本語を話している私ですが、どうしても抜けきらない北海道の言葉が二つあります。

一つは「あずましくない」という表現。うちの子ども達は落ち着きがなく、いつもソワソワモゾモゾドタバタとうるさいのですが、そんなとき口に出る言葉は、

あ~、あずましくないなあ~

こういうとき、標準語では「落ち着かないな~」って言うんでしょうか。私には全然しっくりきません。ちなみに、「あずましくない」は夫が最初におぼえた言葉の一つです。

Hey! Ruhig sein! Ihr seid aber azumashikunai!
(コラ、静かにしなさい。お前達はあずましくない!)

と、いつも子ども達を怒鳴りつけてます。

もう一つは、「こちょばしい」。「くすぐったい」という意味です。こちょばしいと言っても通じないとはわかっているのですが、くすぐられたら咄嗟に「きゃー。くすぐったい。やめてー」と言うことはなぜかできません。どうしても「きゃー。こちょばしい。やめてー」となってしまいます。

夫も、
Nein! Bitte nicht! Kochobashii!
と叫んでいます。

この二つの言葉を我が家で確実に定着させることができて、満足です。
  1. 2005/12/06(火) 23:22:11|
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ゆとり教育に伴う「学力低下」についての補足

先々週は娘が病気、先週は息子が病気、昨日から私が病気モードに突入です。夫はまだ出張中・・・

下書きした記事があったので、アップして、寝ることにしましょ。

先日の「ゆとり教育」に関するエントリーへの補足なのですが。

市川伸一 「学力低下論争」に、参考になることが書かれていました。「学力が下がったら、何故いけないか」について。

この問題を検討するとき、その個人が考える「学習や教育の目的」によって、同じものが随分違って見えるようです。ちょっと引用しますと・・・

 各学問の専門家が「学問・文化の維持・発展」、社会学や経済学からの論者が「産業社会の維持・発展」という視点から教育を捉えているのに比べると、教育学や心理学の論者は対照的で、「個人の自己実現」ということをベースに教育を考える傾向がある。とりわけ、教育学では、労働力を供給する手段であるかのように教育を捉えることに対する、アレルギー的な反発がある。「子ども一人一人の興味や関心を大切にしながら、そのもっている力を引き出していくのが教育である」(後略)



なるほどっ。母親である私は教育を「自分の子どもの自己実現」をベースに考えてきたことがわかりました。国がどうなる、文化がどうなるという以前に、自分の子どもが幸せに生きられるかどうか、が最大の関心事であるというわけなんですね。

さらに、

 ちなみに、文部省のほうはどうだろうか。政府の機関である以上、文部省はわが国の社会全体の維持・発展を考えてきたはずだ。ところが、省庁の中では、比較的その感覚が弱いほうだとも言われている(中略)文部省は、とくに一九八○年代以降、校内暴力、いじめ、不登校などへの対処を迫られたこともあって、いっそう個人尊重的な教育観にシフトしていた。



はあ、そういうことか。

私は日本の教育方針や現状に満足はしていないのですが、でも、ドイツの学校に関する夫の話を聞いていると、「日本の学校も結構いいところがあるな」と思ったりもします。それは、「いろんなことを少しづつ勉強できる」という点です。

ドイツ人には楽器の演奏がまるきりできないという人が結構います。音楽性に優れているはずのドイツ人なのですが。というのは、日本の学校でのようにリコーダーや鍵盤ハーモニカなどあまり教わらないらしいのです。(あまり、と書いたのは、ドイツは州によって教育内容に微妙に差があったりするので、はっきりとはわかりません)日本の学校には必ず音楽室があり、そこにはピアノ・オルガン・アコーデオン・タンバリン・トライアングル等、いろいろな楽器がありますよね。義務教育を終えるまでに随分いろんな楽器に触れました。

ドイツ人の中には全く楽譜を読めないし、音階というものも知らない人がいて驚きだったのですが、学校で教わらず、ピアノ等の習い事もしなければ、一生無縁で終わるようです。

「家庭科」という科目もないので、ボタンのつけ方、料理なども全然習いません。

先日、息子が図工で使うので彫刻刀を購入したのですが、それに夫は驚いていました。学校で彫刻刀を使ったことがないそうです。それから、夫は色のコーディネートというのが苦手なんですが、配色の基本について学校で教わらなかったそうです。日本では中学の美術でやりますよね?

考えてみれば、日本の学校では随分といろんなことをやります。図工に限ってだけでも、写生、粘土細工、木版画、エッチング、彫刻はもちろん、私の記憶では七宝焼きやらろうけつ染めまでやりました。あれ?ろうけつ染めは中学の家庭科だったかな?

給食のときに、栄養の勉強もした覚えがある。毎年文集を作ったりもしました。係りの仕事というのもあって、美化委員とか給食委員とか、特定の業務を担当しますよね。校内放送っていうのもありました。私は放送委員でDJをやったことがあります。

教室の掃除もやりますね。

そう考えると、日本の学校って、主要科目だけでなく、実にいろんなことに配慮してカリキュラムを組んでいる気がします。だから、日本の文部省もなかなか頑張っているのでは?教科書も無料で配布してくれるし(そうでない国、たくさんあるみたい)、子供向けの学習書の充実度だって素晴らしい。図書館へ行くたびに感動します。

「でも、広く浅くじゃ、結局何も身につかないんじゃない?」という批判があると思います。

私個人としては、長い人生、何が役に立つかわからないのだから、いろいろやっておくのもいいんじゃないかな、と。

しかしこれも、「国力」や「科学の発展」などの視点を無視した、個人ベースの考え方であったかもしれません。

また、的を絞った学習法というのも否定するわけではない。

実際、息子を通わせたドイツの公立小学校では、一年生のうちから理科や社会はプロジェクトワークで、「鳥」についてものすごく詳しく調べたりしていました。そういうのもいいのかもしれません。

狭く深く学習する利点もあるだろうし、広く浅くの利点もあるだろうから、本当に何とも言えないんですが・・・

とは言え、基礎学力はやっぱり低下しないほうがいいですね。

日本の「教育観」は今後どのように変化していくのでしょうか。
  1. 2005/10/07(金) 12:53:40|
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さっぱりわからない、「ゆとり教育」論争

日本の「ゆとり教育」は、私達がドイツに住んでいる間に導入されましたが、帰国した3年前には既に、「ゆとり教育はよくない」ということになっていたようで、一連の「ゆとり教育論争」にはすっかり乗り遅れてしまいました。

「ゆとり教育のせいで子どもがバカになった」という批判を、あちらでもこちらでも聞き、「ふーん、そうなのか。ゆとりって失敗とみなされているんだ」とは認識したものの、私にはいまだによく理解できていません。

一体、何がそんなに問題となっているのでしょうか。

「日本の学校教育は丸暗記の詰め込み方式で、考える力がつかないばかりか、子どもが精神的にゆとりを持てず、それが社会の歪に繋がっている」という反省から、「もっとゆったりとしたカリキュラムを」ということになった。しかし、カリキュラムを減らしたら、学力が落ちた。だから、ゆとり教育はよくなかった!

単純に言うと、こういうことなのですよね。

でも、「学力が下がって、問題だ」と言うとき、それは具体的に何を示しているのか、イマイチわかりません。

「国民の知的レベルが下がって、問題だ」ということなのか、それとも、「うちの子の学力が下がって、問題だ」なのか。そして、学力が下がることは、そんなに問題なのか。

もちろん、下がらないに越したことはないですが、学ぶ内容を減らせば学力が下がるのは、ある程度当然のことで、「学力」よりも、「心のゆとり」がより大事だと考えたからこそ、そういうカリキュラムを導入したのではなかったのか。

どうもよくわからないのです。なんと言っても、ドイツ暮らしが長いもので・・・

ドイツは、先日書きましたように、実力社会で、義務教育も5年生から進路別コースに分かれるというシビアなシステム。落第もあるし、ある意味で大変です。しかし、その反面「子どもにあまり勉強させるのはかわいそう」という風潮もあって、塾も予備校もありません。

学校は午前中で終わり。夏休みも冬休みも宿題はなし。金曜日に宿題を出す教師は「とんでもない!」とPTAに糾弾され、幼稚園や保育園でも、読み書きや算数を教えるのはご法度。

やはりドイツでも、近年、子どもの学力低下が問題視されているので、日本その他の外国を見習って全日制の学校を導入しようという動きもあるのですが、やっとそれが一部実現しかかっている現在、「そんなに勉強させるなんて可哀想」派の巻き返しが起こっていると聞きます。

なんだか日本と正反対。どうも混乱してしまいます。

私自身の好みでいえば、子ども達には丸暗記式の詰め込み学習よりも、実体験を含めた総合学習により、本当の意味で学ぶ力をつけて欲しい。現時点での日本の学校での「総合学習」と呼ばれる授業が、期待するレベルに達しているかどうかは別として、ですが。(先生方も大変ですね、指導要領を急に変えられたのでは・・・)

それに、個人的に腑に落ちないことがあります。

土曜日も半日学校へ行き、夏休みも冬休みも宿題のドリルをし、塾にも多少は通い、学校の夏期講習なども普通に受け、受験戦争も経験した平均的日本人の私と、週5日午前中しか授業を受けず、休みにも宿題をせず、塾も行かず、受験戦争とも無縁だった平均的ドイツ人の夫では、延べ学習時間数は私の方がはるかに多いはずです。(大学へ通った年数は二人とも同じ)


なのに、夫の方が賢い!

なんだか、むなしくなりますね。私の青春を返せ!とは言わないけど、自分がやってきたことは一体何だったのだろう?と思わぬでもない。

そりゃ、単にIQの違いでしょ、って言わないで下さい。だったら余計、猫も杓子も詰め込み勉強をする意義はあるのかってことになります。

うーーーーーーん

「勉強なんてしたってしょうがない」って結論に達したわけではありませんよ、決して。勉強するのは、いいことだと思ってます。

だけどね~。本当にわからないです。社会の中で一般に「重要だ」とされていることが、実際どの程度重要なのか。

誰か教えてください。

  1. 2005/10/03(月) 23:38:37|
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「理屈っぽい」って・・・

先日、小学校の作文指導について話題になったとき、友達がこう言いました。

「日本の学校では国語の読解問題というと、心情理解が中心で、論理的思考には重点が置かれていなかったけど、これからは変えていかないと国際社会で競争に勝てないって言われているんだってね。そういえば、ビアンカは以前、ブログに日本のニュースはドイツのに比べて情緒的だって書いていたでしょ。心情を重視する国民性がそういうところにも表れているんじゃないの?」

ほうほう、そうか~。心情理解ね~。

確かに日本人は「いちいち言葉で言われなくても相手の気持ちを察する」ことを大切にしますよね。それが日本社会を円満に収め、物事を円滑に進める鍵なのでしょう。だからこそ、心情理解が国語教育の要になっているのかも知れないですなー。

それって、心情理解に比べれば、論理性は日本人にとってそれほど重要でないということかしら?

日本語には「理屈っぽい」とか「屁理屈」という言葉があります。私の夫は理屈っぽい人間なのですが(あ、私もかも・・・)、「理屈っぽい」の概念を夫に理解させることに私はまだ成功していません。

なぜなら、「理屈っぽい」に相当するドイツ語に遭遇していないから。

理屈っぽいというのは否定的な言葉です。望ましくない性質を表す言葉。つまり、理屈っぽい人は一般的に好まれない傾向がありますよね?ドイツ語でこのニュアンスを出すのは難しい。「論理的」という、ニュートラル~肯定的な言葉はありますけど、論理的であることに否定的な意味をこめた言葉って、ドイツ語にあるのかな?

よーく探せばあるかもしれませんが、あるとしても、日本語の「理屈っぽい」ほど頻繁に使われる言葉じゃないはずです。

心情を重視するか論理を重視するかで、教育の内容ってずいぶん変わってくるんですね。

今後の日本の学校教育が欧米型(?)に近づくべきか否か、私はよくわからないですけど・・・
  1. 2005/08/24(水) 16:38:38|
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日本の喫茶店文化

コーヒー党の母のお供をして、私は子供の頃からよく喫茶店に出入りしていました。もちろんコーヒーは飲めませんでしたが、レモンスカッシュを頼んでもらって、中のさくらんぼを食べるのが楽しみでした。

中学・高校時代も、母と街に買い物へ行った帰りには、喫茶店で何か飲んで帰るのが習わしのようになっていました。そのため、喫茶店は私にとって一種の原風景であるらしく、私は今でも喫茶店というものがとても好きです。

日本にはいろんな種類の喫茶店がありますね。

狭い店内に挽きたてのコーヒー豆の香りが満ち、客は自分の好みの豆を選んで煎れてもらう、コーヒー専門店。

ソファーが置かれ、コーヒーを飲むよりも打ち合わせの場として使われるような喫茶店。

待ち合わせ場所として利用されがちな駅前のチェーン店。

パン屋やケーキ屋が併設している喫茶コーナー。

脱サラした人が経営する、こだわりの店。

喫茶店と呼ぶよりカフェと言ったほうがしっくり来る、洒落たアンビエンテの店。

学生の溜まり場になっている喫茶店。

そうそう、マンガ喫茶というのもありますね。


他にもいろんな種類の店があるんだろうなあ。


私の好みの喫茶店は、うるさいBGMが流れていなくて、おばさん連中が大声でお喋りしていなくて(ときには、自分がおばさん連中の一人として現れることもあるが・・・)、奥まったコーナーがあって好きな本を読みながら一人で何時間でもいられるようなお店。

引っ越すたびに、好みの店を探して周辺にある喫茶店をシラミ潰しにしたりします。なかなか気に入ったところがないとがっかり。

ドイツでも、喫茶店めぐりは私の好きなことの一つでした。コーヒーを飲みケーキを食べることは、ドイツ人の生活において重要な位置にあるようで、どんな田舎町にも一つか二つはカフェがあったように記憶しています。日本の場合、観光地を除けば田舎で喫茶店を見つけるのはなかなか難しく、ドライブの途中に夫が「そろそろコーヒーとケーキの時間だから、カフェに寄って休もう」と言い出しても、目につく看板は蕎麦屋ばかりだったりする。やっとコーヒーの飲める店を見つけても、食堂のようなところだったり、ケーキは置いていないことも多くて、夫に「も~う!日本にはカフェ文化ってないのかなあ」って愚痴られることも多いのですが・・・

だけど私が思うには、日本にもちゃんと「喫茶店文化」があるよ。ドイツではあまり見かけないタイプの喫茶店が日本人の生活の一部として根付いています。

たとえばこういうお店に夫を連れて行きました。

小さなお店の中にはカウンターと、テーブル席が一つ二つだけ。カウンターの後ろにマスターが立ち、棚には様々な形や柄のカップがずらりと並べられている。その中から一客を選んでコーヒーを煎れながら、マスターは客の一人一人と会話します。
「どこからいらしたんですか?」夫も訊ねられ、しばらくお喋りを楽しみました。そのうち、常連客らしい別の客が入ってきて仲間に加わり、素敵なひとときでした。
「客が喫茶店の主人との会話を楽しみに通う喫茶店って、ドイツではあんまりないかもなあ。でも、なんかいいね、ああいうのって」
夫の感想。

それから、いわゆる「ギャラリー喫茶」。手作りの陶器や染物、小物などが並べられ、自家製のお菓子が食べられるようなお店。プロの作家の作品を置いてある店もあれば、主婦が趣味で作ったものを自宅の一部に並べている店もあって、それぞれに楽しい癒しの空間です。私はそういうギャラリー系喫茶店が大好きなのですが、ドイツでは見かけません。

もしももしも、いつか自分が喫茶店を経営するとしたら、どんな店がいいかなあ。

そんなことをちょっと考えてみたりするのですが、頭に浮かぶイメージはこんなふうです。

「ライブラリー喫茶」。

店内の壁には本棚がずらり。座り心地のよいフカフカの椅子を置いて、お客は本を読みながら何時間でもいられるような空間。並べてある本はいろんな言語のもので、そう、つまりいろんな国の人間がごちゃごちゃと混在し、お喋りを楽しんだりもできる場所にしたいのです。客が本を持ち込んで、読み終わったら置いていくようなラフな形式で。場所は人種の坩堝である大都市の真ん中か、あるいは自然の美しいどこかのリゾートがいいでしょうか・・・

ま、単なる空想ですけどね。
  1. 2005/08/23(火) 11:00:50|
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学校での性教育

昨日、息子が、
「きもいテストがあったよ」
と、一枚のプリントを見せてくれました。見ると、それはおとなのからだへの変化と題されていました。

はは~ん。そっか、もう4年生だからねー。

授業の後、習ったことの確認のため、テストがあったようです。六つの問題のうち、三つは穴埋め問題。
「女子は(むね)がふくらんできます」とか、
「男子は精子がさかんにつくられて体外へ出される。これを(射精)といい・・・・」とか。
これらは一応、全問正解。

残る三題はまるっきりダメでした。一題は、「次の文は、思春期に起こる心の変化について書いた文です。正しいものに○をつけ、正しくないものには×をつけましょう」という○×問題なのですが、その中に、
いっぱんに男女一組になり、交さいする人もでてくる」というものがあり、息子はこれに○をつけてました。正解は×。
息子「○だと思ったけどね?」

うーむ。設問の意図が私にもイマイチわかりません。思春期の定義が書かれていないけど、体が変化するっていってるんだから12~15歳くらいなのかな?私が中学生の頃を思い出してみると、クラスに数人は「交さいする人も」いたように思います。(「交さい」の定義もよくわかりませんが)この設問は「実際にどうか」というより「どうあるべきか」を問うものなんですよね?

同じテストがドイツの学校で実施されたらと想像してみました。正解はどうなるでしょう?もしかして「○」じゃないかな。
「交さいする人もでてきます。だから、いろいろなことに気をつけましょう」
ドイツでは学校(5年生以上が通う学校)にコンドームの自動販売機が設置されていると聞いたことがありますから。

まあ、ドイツの話は、おいといて。

残りの二題はこうでした。
「男女がなかよく生活していくためには、どんなことに気をつけたらよいか、考えて書きましょう」
息子、これは空欄のまま出したようです。
「思春期にはなやみをもつことが多くなります。もし、あなたになやみが出てきたら、どのようにかいけつしていきますか」
これも空欄のまま。
正解はそれぞれ、「協力しあって、なかよくしていきましょう」に、「近くにいるおうちの人や先生、相だん員さんに相だんし、一人でなやまないようにする」だそう。赤ペンで書き入れてありました。

どうも息子はこの授業のポイントが掴めていません。何のためにこういうことを説明されたのか、ピンと来ていない様子です。

そういえば私もそうだったな~。私の時代は女子だけが受ける性教育でした。男子は外でサッカー。女子のみがスライドを見せられて、初潮がどうの、赤ちゃんがどうのって習いましたね。

その授業のあった日の夜、家で母に尋ねられました。
「教わったことを言ってごらん」
私、得意げに答えたんですよ。
「えーとね、女子は生理っていうのがあって、出血量は一日に××デシリットルぐらいなんだって!」
はあっ!?という顔を母がしたのを覚えています。
「何デシリットルなんて、そんなことはどうでもいいでしょ。もっと肝心なことを習ったんでしょ?言ってみなさい」
「えー、忘れた~」
ポイントがまったく掴めていませんでした。

「なやみをもつことが多くなります」って、まだ悩みを持っていないときに言われても、何のことだかわかんないかも。

息子は「きもいテスト」という感想のほかに、果たして何かを得ることができたのかな・・・



  1. 2005/07/20(水) 23:22:57|
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「特殊な国、日本」という幻想




日本文化はユニークかでも書きましたが、「我が国は世にも珍しい国なのだ」という認識が、日本では相変わらず根強いようです。「我が国は世界でもっとも素晴らしい!」という中華思想は、世界の至るところで見られるけれど、「世界の中で、我が国だけが違う!」という自国異質思想がこれだけ浸透している国は、世界でも日本だけではなかろうか~!

おっとっと・・・やってしまいましたー。「世界でも日本だけ」だなんて。なんでそんなことがわかるの。あんた、全部の国を見てきたのかい?いえ、見てません。そうですよね。もしかしたら、日本だけではなく、世界のいろんな国民が「うちだけ違~う!」と盛り上がってるかもしれないですよね・・・

まあ、他の国民はどうかわかりませんが、とにかく日本人は「自分達は他と違う」と思うことが気に入っている。これは確実なのではないでしょうか。よく聞かれます。
「ドイツにもXXってあるんですか」
ここで、はいありますと答えると、大抵エッという反応。「あるか、ないか」が本当に知りたくてというより、「ない」ことを前提に聞いているようなんです。

私自身も「日本は」とか「日本人は」とか「日本語は」の話が大好きなので、その点、典型的日本人と言えるかもしれません。そもそも、何かの特徴を語るには比較対象がなければいけないので、日本人は外国のことをわりとよく知っている国民、あるいは外国に興味を持っている国民なのでしょう。私の場合はドイツをよく知っているので、ついついドイツと比較して「日本は~」とやりますが、同じ日本も、別の国と比較すれば全然違って見えるのでしょうね。どんな国にも「絶対的特徴」というのはありませんから。あるのは相対的特徴だけ。

ではどうして、日本人は「日本だけが違う」と思うようになってしまったのでしょう。

考えられるのは・・・
1.日本語という言語は他の言語との距離が極めて遠い、「孤立言語」であると考えられているので、そういう言語を話す民族はメンタリティが特殊に違いない。

 う~ん、多少はそうだと言えそうですね。でもメンタリティを形作るものは言語のみではない。

2.日本は島国なので、他国の影響を受けずらい。しかも鎖国をしていた。

 これもちょっとは関係してそう。もちろん島国なんて、世界には五万とあるけど。

だけどこれだけが理由じゃないよねー、きっと。こんなのはどう?

3.日本は幸か不幸か、アジアでは唯一の先進国である。

 最近は他のアジアの国もそれぞれ頑張っていますし、日本は落ち目ですが、ちょっと前までは国際経済の場でやっぱり目立っていた。バブルの頃には「日本だけが国際ルールを守っていない!」とバッシングされ、日本異質論が盛り上がっていましたね。でもそれって、単に先進国グループに毛色の違うのが一人だけまじっていたからではないの?仮にG7のメンバーが「日本、韓国、中国、ベトナム、シンガポール、タイ、アメリカ」だったとしたら、アメリカが「おまえだけルールを守ってない!」って異端児扱いされていたんじゃないかしら。

私はドイツの大学で文化人類学を専攻していたのですが、文化人類学というのはそもそも先進国の学問で、建前は「偏見を持たずに、対象を客観的に分析しよう」だけど、所詮、先進国(つまり欧米)の基準で見ているのです。アメリカ人・イギリス人・フランス人・ドイツ人が集まって、「ブッシュマンはああだこうだ」「バリ文化はああだこうだ」と分析したところで、それは彼らに共通の価値観を物差しとして語っているに過ぎないのです。セミナーに参加していると、「ううう~。そうじゃないっ。日本人の基準で見るとそうは見えないっ」とイライラすることが多かったけれど、それを彼らに説明するためには「日本文化」から説明しなければならず、その日本文化の説明のためには欧米の価値観を基準にしなければならない・・・とややこしいので、諦めて静かにしてました。もしも、欧米の文化人類学者が「ブッシュマン大学」のセミナーに招待され、ブッシュマン人類学者らの分析による「欧米人とは」の講義を聴いたらどうなるかな。想像すると楽しい~。

参考: ちょっと知りたいスリナムの管理人さんが、興味深いことを書かれています。

ちょっと話がそれてしまいました。

しかし、「日本だけが違う」と考えるのには、一体どんなメリットがあるのでしょう?思い当たるのはむしろデメリットのほう。自分達は違うのだと考えることは、「だから自分達はダメ」と欧米人に不必要なコンプレックスを抱くことになったり、あるいは逆に「日本の心はガイジンにはわかりっこない」と排他的になることに繋がるように思う。なにもそんな極端にならなくても・・・って思うんですけど。それとも「日本は特別」という思想は、日本人としてのアイデンティティの確立に必要なのかな?でも、日本はアイデンティティの崩壊に悩むほどの多民族国家ではない。じゃあ、どうして?戦争に敗れ、「日本はダメな国」と自虐的になってしまったから、「自分達は特殊なんだから、だから外国にはわかってもらえないんだぁー」と自分に言い聞かせることでバランスを取ろうとしているんだろうか?

わからない。わからないよ~!!

世界中のすべての国は、他の国とそれぞれ少しづつ似ている。

日本人は「お箸を使う」ところが中国人に似ていて、「食べ物にうるさい」ところがフランス人に似ていて、「クソ真面目」なところがドイツ人に似ていて、「遠慮深い」ところがデンマーク人に似ていて(これは新情報!)、身内自慢をしないところがイギリス人に似ていて、行事好きなところがバリ人に似ていて、麺の好きなところがイタリア人に似ていて、着物を着るところがブータン人に似ていて、痴漢行為をするところがエジプト人に似ていて、菜っ葉を好んで食べるところがマダガスカル人に似ていて、それからそれからそれから・・・・

つまり、み~んなに似ている!

っていうのじゃ、ダメ?


  1. 2005/05/24(火) 21:21:57|
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痴漢の文化人類学

藤田徳人ブログを読んできました。相変わらず興味深いです。読後はいつも、「納得~」とつぶやいて終わるのですが、しかし今回はちょっと引っかかりました。この記事です。女性専用車両:首都圏で一斉導入

「女性専用車両を逆差別だと怒る男性もいるだろうが、仕方がない。法律とはそもそも女性に優しくできているのだ。女性を守ることが子孫繁栄に繋がるのだから。このような車両が導入されたのは時代の流れとして当然。もはや男性だけでは経済を担っていけなくなったのだから」

なあるほどです。法律とは所詮そんなものだ、ということがわかりました。でも、私の一番知りたいことがここには書かれていません。すなわち、

ど・う・し・て・男・性・は・痴・漢・行・為・を・す・る・の・か

「そんなの当たり前じゃないか、男だも~ん!」って言うのだーれ?
「それが生物としての本能なのです」と藤田先生。(ですか?)

ま~そりゃそうかもしれませんけど~。痴漢が発生するのは当たり前のこと、だから女性を隔離しましょって言うならそれは違うと思うの。痴漢の発生をどうしても抑えることができなくて苦肉の策ってことならわかりますけど。まさか男女混合車両の方では痴漢行為やり放題になんてならないでしょうね?

女性専用車両と聞いてすぐに思い出したのはエジプトです。カイロ市にも女性専用車両があります。理由は日本と同じ。痴漢がすごく多いんですって。そういえば欧米では電車の痴漢って聞きませんね。どうしてかな。東京やカイロの電車ほど混まないから、痴漢行為をしづらい、あるいは痴漢に間違えられづらい?それはあるでしょうね。でも電車以外の痴漢もあまり聞きません。欧米には痴漢はいないのでしょうか?

夫に聞いてみる。
「ドイツにも痴漢っているかな?」
「えー、いないよ」
まあこれはあまり当てにならない。夫も男性ですから。ドイツで痴漢に遭った経験のある方はご一報ください。しかし、ドイツにおける「痴漢発生総数」が日本より少ないことは間違いありません。ドイツでも性犯罪は決して少なくないですし、職場でのセクハラというのも聞いたことがあります。でも、痴漢や露出狂、覗き男などはあまりいなそう。ではドイツの性犯罪は凶悪なものが多く、日本は軽犯罪が多い?う~ん、そうとも言い切れないですよ。だってこの手の統計ほど信憑性が疑わしいものってありませんもの。どれだけの女性が届け出るものか・・・世界の他の国では痴漢状況ってどうなっているんでしょうか。知っている方がいたら教えてくださいね。

でも、私がここで問題にしたいのは痴漢発生数の国際比較よりも、痴漢行為に対する意識というか、「痴漢文化」についてですっ!みなさんは痴漢というものをどう考えているのでしょう。日本へやってきて家探しをしたとき、児童公園にある立て札を指差して夫は「何とかいてあるのか」と聞きました。「痴漢に注意!」と書いてあると説明したら、夫は真っ青になって「何だって!そんな町で娘を育てられるか!!」。でもどこの町でも同じ。痴漢のいない町なんてあるんでしょうか。

日本で生まれ育ち、子供の頃から痴漢被害にも遭ってきた私は、夫ほどは驚きませんでしたが、この手の立て札には首を傾げてしまいます。
「この公園には痴漢が出ます」これってまるで・・・・
「このアパートにはゴキブリが出ます」
「この倉庫にはネズミが出ます」
申し訳ありませんねえ。出るんですよ。ご勘弁くださいねえ。そんな感じじゃない?
「痴漢を許すな!」にはならないんですか?
「混合車両のほう、痴漢が大発生しておりますので、女性の方は専用車両のほうへどうぞ」
そういうことなのかい?

しょうがないな~っていう受身社会が痴漢を許しているんじゃないんでしょうか。痴漢が出るのは当たり前って諦めていません?いーのかなー、そんなことで。

この「女性専用車両導入」のニュース、海外メディアでも紹介されてるんですよ!恥ずかしくないんですか!!日本は痴漢大国として世界に名を馳せてしまうんですよ!どうやって言い訳するつもりなの。

女性は痴漢にあったら容赦なく叫びましょう。そして、僕は痴漢なんてしませんよ、っていう男性のみなさん。どうか痴漢撲滅運動に乗り出してくださいよ。痴漢行為を見かけたら、大声でこう言ってください。
「君ぃ、やめたまえ!」

その清い一言を待っています。変な連帯感を持つのはやめましょう。



(追記:Kakoさんもこのテーマで記事を書いていらっしゃいます。)
  1. 2005/05/11(水) 09:52:50|
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日本人は議論が嫌い?

大分前になりますが、「ケータイを持ったサル」という本の著者が北海道新聞のインタビューで、「本が売れたのはいいが、評価はベタ褒めかクソミソかの両極端でがっかり。これでは発展がない。まったく日本人は議論ができないね」という内容のことを述べていました。

先日、義妹のキョウコちゃんにも「日本人は、お互いの違いを認めた上で会話を楽しむのは苦手ではないだろうか」と言われた。確かに日本人はあまり議論を好まないように感じますね。ドイツ人は、あーでもないこーでもないと議論するのが好きな人が多いかな。まあ、全員がそうではありませんが、相手が自分に同調してくれなくても日本人ほどは気にしないようです。

日本人があまり議論をしない理由について、こんなふうに言われています。

* 日本人はもともと自己主張が弱い。
* 日本人は対立を好まない。
* 日本人は論理力を鍛えるような訓練を受けていない。

まあそうなのかな、と思いますが、どうもこれだけでは弱い気がする。うーむ。

いまひとつ決定的でないな~と考えていたところ、こんな本を発見。

三輪正 「一人称二人称と対話」

先日、「相対的私」よ、さらばというエントリーに、日本語の一人称にバリエーションが多いのは自己を相手との関係において定義するからではないかと書いたのですが、私がインスピレーションを得た元記事のあるヒロさん日記でその後議論が展開し、興味深くそのやり取りを読みました。私なりに、もうちょっと掘り下げてみたくて上記の本を読んでみたわけです。

「ははぁ~ん。そうか~」ってことが書いてありましたよ。日本語は一人称だけでなく二人称のバリエーションも多い。あなた、あなたさま、あんた、おまえ、おまえさま、おたく、おたくさま、そちらetc....相手によって使い分けなければなりません。このように「常に相手との上下関係を意識しなくてはならない」言語で議論するのはやっぱり難しいものがあるかもね。目上の人を立てなければいけないという状況で「あなたの意見に共感しません」なんて言いづらい。生意気だ!って怒られるでしょう。異論を唱えるにしてもせいぜい、「仰ることはもっともでございますが、しかしXXXの可能性もあるかと・・・」なんて消極的反論にならざるを得ない。日本人のジョークに自虐ギャクが多いのも、自分を貶めてる分には「失礼にあたらない」からでしょう。日本で革命が起こらないのは、年の離れた相手や先輩に「同志」という言葉で呼びかけるのがメンタリティーに馴染まないからかも。

そう考えると、ヒロさんの「一人称を私という言葉に統一しよう」という提案は一つの可能性として面白いと思います。他者との関係を意識しすぎると自分の考えもロクに述べられないですもの。もちろん「私」以外の一人称を日本語から一掃するというのには相当無理があるし、そうなったらもはや日本語ではないとも言えますが・・・

あるいはこんなのどうでしょう。「会議・演説などでは英語を使う」ナニ言ってんだ~って怒られそうですね。英語を「外国人とのコミュニケーションのためのもの」だと考えれば、英語学習が必要な人はそれほどいませんね。海外旅行にも興味がないし、うちの田舎には外人さんがいないんで・・・っていう場合、英語を学習する必要は全然ないと言える。でも「論理力を身につけるために英語を学習する」っていうのならどうかしら。日本語では「失礼にあたるから」言えないことでも、英語だったら言えるかも!?言論のツールとして、英語は便利なんじゃないかと思いますよ。

「日本語でさえ正しい使い方をおぼえるのは難しいのに、英語なんて強要してこれ以上負担を増やすのはいかん!」って?確かに現実的ではなさそうですね。

やっぱり面倒くさい議論なんてしなくていいのかしら・・・?
  1. 2005/05/09(月) 10:01:17|
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