わいるどわ~るど 

異文化好き好奇心人間の世界考察ブログ

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保護者の力が学校を変える?

楽しかった夏休みもあっという間に終わり、今日から子ども達は学校で~す!

私はもうしばらく夏休みでもよかったな~という気分だけど(だって、楽しいんだもん)、子ども達は「やったー。学校!」と張り切って出かけて行きましたよ。

さて、それでは雑務に取りかかるか、と、村の有機ショップに買い物に行きました。ここの店主は私と同年代の女性で、村の小学校に通う息子さんがいます。初めてこの店へ行ったとき、リーケに「あなたの息子さんはどこの学校?」と聞かれて、「ポツダムのモンテッソーリシューレに通っている」と話したら、彼女は大きなため息をつきながらこう言ったのでした。

「いいわね。私も本当はうちのヨーナスをモンテッソーリシューレに入れるつもりだったの。でも本人が、どうしても村の子ども達と一緒の学校がいいって言うから、その意思を尊重して村の学校に入れたのよ。結果的に、ヨーナスは元気に学校に行っているし、放課後は近所に友達がいるから、これでよかったのかなとは思うけど、でもここの学校、内容がちょっと......授業のことや運営のことで、不満がいろいろあって、もしあのときヨーナスを説得してポツダムへ行かせてたらと思うことがあるんだよね」

私は、村の公立小学校については何も知りません。息子の学校と比べてどちらが良いというようなこと、全くわからないし、比較して云々する気もないのですが、まあとにかく、リーケは上記のように言っていたんですね。

我が家の場合、ドイツに戻って来るときに、まず学校探しをして、たまたま良さそうなところが見つかったので決めました。ですから、できれば学校の近くに住居を得たかったのですが、短期間ですべてを決めなければならない状況だったので、思った具合にいかず、結局、6kmも離れたカプート村から子どもを通わせることになってしまいました。

この辺りの環境がとても気に入ったので、後悔はしていないんですが、交通の便が悪くて子どもが自力で学校に通うことができない上、友達はポツダムに住んでいて、放課後遊ぶ約束をするたびに私が車を出さなければならないのが、正直言って面倒です。でもまあ、子どもが喜んで通っているんだからいいか、と思うことにしてるんです。地元の学校があまり評判良くないならなおさら。

しかし、今朝私が、「今日から新学期だね。ヨーナスは元気に学校に行った?」と声をかけると、リーケは明るい顔でこう言いました。

「聞いてくれる?ヨーナスの学校、大改革して、今日から晴れて全日制の学校になったのよ!」

前にも書いたことがありますが、ドイツの公立校は伝統的に授業は午前中だけで、給食もありません。それが、このたび村の学校に給食が導入され、生徒は午後1時半まで学校にいることができるようになったという。

「それだけじゃないの。朝は授業前の6時から預かってくれることになったし、午後はいろんなアクティビティに参加できることになったの。学校でピアノを習ったり、空手や柔道もできるのよ。授業の進め方も、新しいアイディアを取り入れてかなり変わるはず

へえ~、そうなんだ。それはすごい、よかったね!と私が言うと、

「でもね、ここまで来るのは大変だったのよ。私達保護者が改革班を立ち上げて、一生懸命学校や市に働きかけて、ようやく子どものために良い環境をここまで整えてやることができたわ。保護者が立ち上がらないと、何も変わらないからね」と。

頑張ったんですね~。

日本でもドイツでも、教育制度に対する保護者の不満は大きく、「公立校にはとても任せられない」と私立の学校に目を向ける保護者が増えている印象を受けます。とは言っても、私立校が近辺になければ選択のしようもないし、経済的なこともあるし、「公立校にはもう見切りを付けた」なんてみんなが言えるわけじゃない。

「いまや、良い教育を受けられるのは裕福な家庭の子どもだけ」なんていうことをしょっちゅう耳にするようになって気が滅入っていたので、村の小学校改革のニュースを聞いて、少し明るい気持ちになれました。

ヨーナスの学校生活が、ますます楽しいものになるといいな。
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  1. 2006/08/21(月) 20:38:36|
  2. 教育・学校
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学びと遊び

夏休みに入ってから、子供達と野外を走り回って(泳ぎ回って)いるので、肉体的に疲れ果ててベッドに倒れ込む毎日です。すでに、この一帯のオススメスポット満載のガイドブックが書けるんじゃないかという勢いですが、日本語で書いても利用者はほとんどいないに違いないのが残念。

しかし今日は珍しく睡魔に襲われずにいるので、頭に浮かんでいることを書いておきます。

「学校教育の現場でもっとも大事なことは何か」と考えるとき、私は「たくさんの知識を提供すること」や「暗記テクニックを伝授すること」よりも、「学びへの興味を喚起すること」が何より大事と相変わらず思っています。

先ほど拝読した、ヒロさん日記の最新エントリーのここの部分、

遊びながら、賢くなり、社会性を身につけられるなら、それにこしたことはない。学んだ内容をどれだけ「記憶」として保持できるかどうかは、さほど問題ではない。それよりも、「学ぶことの面白さ」をどんどん体験してほしいものだ。


共感、共感。

何故って、学ぶことが楽しいと思えたら、一生退屈しないもの。客観的に賢くなれなかったとしても、主観的に賢くなったつもりになれたら、それだけでもいいじゃないか。

おとなはいいなあ。もう勉強しなくていいんだから」って、多くの子供が言いませんか?なんだか悲しい。
大人になる=勉強をやめる=嬉しい。何かが違うと思う。世の中にあるものを「勉強」と「遊び」に分けるってことからして、ナンセンスじゃないでしょうか。どんな遊びだって、そこから何かを得ようという意思があれば勉強になるんだし、どんな勉強も、楽しくやれば遊びみたいなものなんだから。

何故勉強が嫌になっちゃうかっていうと、「知識」を「道具」だと認識するからでは?知識を「○○するために必要なもの」だととらえると、そりゃ面白くないです。せっかく学んだことを記憶しておけないなら無駄だとか、せっかく学んだのに使う機会がないなら無駄だっていう考え方から抜け出せたらいいのに。知識が単なる道具であって欲しくない。学んだことを記憶しておけるかどうかは置いといて、学んだという体験そのものが自分という人間を形作る細胞の一つになればいいのに。

語学学習者に対するよくある批判に、「中途半端に外国語を覚えたって何もならない。言葉は道具なのだから、仕事で使えないような日常会話しか身につかないなら、お金や時間を費やしてもムダ」とか、「発音や文法を完璧にしても、伝える中身がなければ何もならない。言葉は所詮、情報伝達の道具なのだから」というのがあって、どちらも言いたいことはよ~くわかります。確かにその通りですから、いつもウンウンと頷きます。

だけど、なんだかちょっぴり物悲しくなるんですよ。言葉って単なる道具に過ぎないのかって。言葉ってそれ以上のものなのじゃない?言葉って心なのじゃない?言葉って人間の血肉なのじゃない?

外国語を覚えるのは、仕事に使うためだけじゃなくて、自分という人間を豊かにするためでもあると思うんだけど。

勉強したくないと子供が言うとき、そこには「何故こんなものをやらなければならないのか?」という疑問や怒りがあります。「将来の為」と言われて、納得する子がどのくらいいるんだろう。子供にとって大切なのは、将来ではなくて「今」。

私の好きな歌の歌詞に、「一瞬の今を千秒にも生きる」っていうフレーズがあります。千秒の積み重ねが将来を作っていくのではないでしょうか。


  1. 2006/07/13(木) 06:47:08|
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様々な子育ての価値観と理論

なんだか、いつになくちょっともやもやとしています。

世の中には、子育てに関していろいろな考え方、やり方があって、そもそもどれが絶対正しいとか、間違っているというのは多分ないのだと思います。どんな理論にも一理あるけれど、どんな理論も多分完璧ではない。大体、特定の理論に基づいて子育てをするということからして、不自然なのかもしれません。

それでも育児理論が世の中に存在するのは、指針を求める親がいるからで、またなんらかの方針がないと教育機関はプランを立てることができないからでしょう。あるいは、大脳の発達した人間には、動物のように本能だけで育児をすることが不可能で、どうしてもいろいろ考えざるを得ないからかも。

私は育児に関しても、なるべくいろんな考え方に対してオープンでいたいなと思ってはいるけれど、好みの育児の方向というのはもともと漠然とあって、それは多分、私の性格や成長過程での体験から形作られているものだと思うんですよね。それでたまたま自分のもともとの方向にフィットするような理論に出会うと快感で、そういう理論が気に入ってしまうようです。

息子が幼児のときには特定の教育論、育児論にはあまり接したことがなく、自分ができるようにやっていただけですが、初めての子育てはわからないことばかりでかなりストレスがありました。それが娘のときには、ある子育て理論に出会って、目からウロコというような体験も多くあったし、精神的に助けられ支えられた部分も非常に大きかったのです。あ~、そうか、息子のときもこうしてあげたらよかったのかな~なんて感じることも多々ありました。

同じような考えの人達に囲まれているということは、精神的に楽ですから、リラックスしていることが育児に良い影響を与えるんじゃないかと思うんです。しかし、同じような考えの集団の中にいるということは、また危険でもある。通気性がよくないというか、その中で特定の考え方がどんどん濃縮されていくような感覚を、私は怖いと感じることがありました。

特定のポリシーを持つ育児組織の中に入ったからといって、別にそのポリシーに全面的に賛同する義務はないし、染まりきる必要もありません。学べるところは大いに学び、良いと思うところは積極的に取り入れ、馴染みにくいと感じる部分に関しては距離を保てばいい。頭ではそう思うんですね。

だけど、実際には必ずしもそうサラッとは流せないんです。そこまで達観できないので、いろんな価値観の中でゆらゆらと揺れ動く。育児以外のことだったら、あーだこーだと好きなだけ思い悩んでも別に毒にも薬にもならないでしょうが、子ども相手にふらふらと路線変更しては子どもは堪らない。

どうしてこんなことを書くかというと、日本で娘は「さくら さくらんぼ系」の保育園に通っていましたが、そこの考え方が私には大まかなところでは気に入っていたのですね。そして娘もとても幸せに成長して来たように思えるので、できれば、そこの考え方と共通性のある学校がいいなと思って、現在のモンテッソーリシューレに決めました。

ただ、方向性としてはよく似ているとは言え、もともと別の理論ですから、細かいところではたくさんの違いがあります。さくら-さくらんぼ系で最も重視されることは、早寝早起きの生活リズム、幼児期には文字を教えずに自然の中で体を使って五感を磨かせること、それから「自立を急がず、子ども自身の成長をじっと見守る」ということです。

モンテッソーリの育児についてはまだそれほど多くを知りませんが、モンテッソーリのキーワードは「自立」であり、子どもが就学前に文字を覚えたがった場合はそれを積極的にサポートするようで、その辺りが今まで自分が実践して来たやり方とどううまく繋がるか、まだちょっとわからない状態です。

埼玉でのやり方には愛着があるので、変わり身早くパッとモンテッソーリに鞍替えというのでもないし、かと言って現実の生活は既にこちらにあるので、だんだんと気分的にこちらモードにシフトして来ている感は拭えません。

本当はどっちのやり方がどうこうではなく、子ども達が笑顔で生き生きとしているかどうかが一番大事なはずなので、難しい理論は置いておいて、感覚的に気持ちがよいと思えるやり方で進んで行けば良いのですよね。

わかってはいるんだけど、なんとな~く落ち着かないような、へーんな気持ちです。
  1. 2006/06/20(火) 05:34:42|
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教科書のない勉強

わくわくふわくさんの「石に教える言葉」へのTBです。

調べものをするため図書館に来た学生が、どうやって本を探していいかわからない。具体的に何を調べようとしているのかも人に説明できない。どこの棚のどのあたりに参考になりそうな本があるよと教えられても、まだどうしていいかわからない。

司書であるわくわくふわくさんが、そんなエピソードを綴られています。

それを読んで、「人に頼ることばっかり考えないで、少しは自分で考えないかなあ。まったく嘆かわしい」とも思うし、「ううっ。私も大学に入学した頃は、この学生とたいして変わらなかったかも....」と恥ずかしくもなります。

大学とは学問をする場所で、調べものは学問の基本。求める情報がどの辺にありそうかの見当をつけるところから調べものは始まる。なのに、その能力が全く身についていない状態で大学入試に合格するということは、考えてみれば不思議です。

日本の大学受験は決して楽じゃないのにね。「小学生のうちから遊ぶ時間を返上して必死に勉強しないと合格できない。生半可な気持ちじゃ乗り切れないのよ」そう語る親も多いです。それなのにどうして、難しい試験に合格したはずの学生が調べものの初歩すら理解していないということが起こるのだろう?

高校までの教育は生徒にどういう能力を培わせようと意図しているのか。大学は学生が学問をすることを前提に選抜をおこなうのではなかったのか。「はてな」マークが頭の中をふわふわ飛んでます。

飛躍するようですが、「教科書」の意義についてまでちょっと考えてしまいました。

息子がドイツの公立小学校一年生に入学したとき、教科書は国語(つまりドイツ語)と算数しかないと聞いて、驚きました。理科も社会も音楽も図工も教科書はありません。理科や社会はテーマごとにプリントなどを使って学習するということでした。テーマが鳥なら鳥のプリント、テーマが騎士なら騎士のプリント。

そういうのも面白そうだなと思ったものの、実はちょっと不安でした。教科書がないなんて、どのくらい学習が進んだのか親にはさっぱりわからないじゃないの。それに、教科書なしでシステマティックに学べるの?先生の好みで偏るんじゃないの?日本だったら、四月にはこれをやって、五月はこれをやって、というのがはっきりわかるのになあ。

と思っていたんですけど、シュタイナー校では教科書というものは全然使わないと聞いてさらに仰天。え~、それでどうやって勉強するの?

シュタイナー校を卒業した知人が言うには、
「教科書がないから、先生の話を真剣に聞かなければならないの。自分で教科書を作るようにノートを作るから、とても身についた」
へ~、なるほど。
そしてさらに、東京にあるシュタイナー教育を実践している学校の公開日に出かけて行き、そこに展示されていた生徒達のノートを見たときには、かなりの衝撃を受けました。5年生(複数)の理科のノートには人体解剖図がカラーで描かれていたのですが、その美しいこと!単に細かいとか、そんなレベルじゃありませんでした。魂をこめなきゃこんな作業はとてもできないだろう、と感動してしまった。

そして、現在息子が通う学校にも教科書はありません。教室や図書室には学習図書はたくさんあって、授業で参考書を使うこともよくあるそうなのですが、いわゆる「一年 国語(上)」とか「二年 算数(下)」のような本はないのです。

教科書がないと勉強ができない、というのは違うのかもね......

教科書があれば系統立てて学習できるから良い気もするけど、教科書があることの弊害も全くないとは言い切れないのでは。教科書があるとどうしても受け身学習に陥りやすく、自分自身で考えを展開することが難しい。「これをやって、その次にこれをやって、その次は....」というレールの上を進むような勉強から脱却することができない。

巷で批判は多いけど、日本の文部省はかなりいろいろ考えて教育カリキュラムを組んでいると私はいまでも思っています。子ども達に必要な知識はこれとこれ。なるべくまんべんなく、易しいものから難しいものへと順序よく。悪いことじゃないと思う。

だけど、そのきめ細かなカリキュラムには落とし穴がある。そういう気がして来ました。

「習ってないから、わかりません」
「試験範囲じゃないから、できません」
「教科書にない単語が出て来たから、答えられません」
そんなに簡単に諦めないで。よーく考えればわかるかもしれないのに。

大学で教えている弟の話なんですが、学生がいつまで立っても実験報告を持って来ないので痺れを切らして見に行ってみると、何もしていない。どうしてやってないのときくと、「先生が次々と指示を与えてくれないからじゃないか」と言ったとか。

知識は人に与えてもらうものという前提でいると、勉強するのにお金ばっかりかかっちゃう。高い授業料を払って大学に行ったのに、先生が知識を与えてくれなかったから何もおぼえられませんでした、ってことにもなっちゃう。

なんだかな~と考えてしまいます。



  1. 2006/06/18(日) 05:12:04|
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内面の充実

先日から、いろいろな方のブログを拝読して随分と考え込んでいるのですが、どうもうまく考えをまとめることができません。でもとても気になるので、2つのエントリーをここでご紹介します。

一つはヒロさん日記の「神話の力」:あなたの輝きこそが世界を照らすという記事です。「神話の力」という本からのこんな引用が私の心に引っかかりました。

私たちは外にある目的を達成するためにあれやこれやすることに慣れすぎているものだから、内面的な価値を忘れているのです。「いま生きている」という実感と結びついた無上の喜びを忘れている。それこそ人生で最も大切なものなのに。



そうかもしれないと感じました。私達は「しなければならない」ことをするのに、本当に忙しい。「~のために頑張る」ということが、とっても多い。でも、「しなければならない」と考えていることのうち、本当にしなければならないことってどのくらいあるんだろう。

二つ目はKakoさんの記事、ゆとり

私が田舎の小学校に通っていた頃の、あの授業を都会の教育ママたちがみたらなんて言うだろう。「信じられない!」と抗議の嵐だと思う。だって教科書なんて半分も終わらないのだ。学期の途中で転校した私は、あまりに授業が進んでいなかったことに転校先の学校で驚かれ、急遽一週間ほど特別補講を受けたくらいだ。

じゃ、どうしてそんなことになっていたのか? 別に先生がさぼっていたわけではない。むしろ一生懸命だった。授業を工夫し、全員が分かるまで丁寧に時間をかけて教えてくれる。おかげで教室の中は子供たちの笑顔がいっぱいで、いつも明るかった。

それから、授業は教室の中だけにおさまらなかった。理科も、社会も、よく外へ出、じかに手にし、調べて歩いた。例えば、川の上流、中流、下流の様子が違うことも、実際にみんなで川沿いを歩いて石を拾い、確かめた。地層について学ぶときは、観察できるところがないかそれぞれ探して先生に報告し、そこへ皆でぞろぞろでかけるといった具合だった。今でいう総合学習のようなものも多かった。それらはとても楽しかったし、随分理科の目を養ってもらっていたと思う。実際、ああいう経験がなかったら、私は理系に進路をとらなかったかもしれない。



カリキュラムをこなすことと、学んだという実感を得ることと、どちらがより大事なのだろうかと考えてしまいました。一定の量をこなすことは安心と結びついている。「これだけやっておけば、まず安心」。でも本当にそうなんでしょうか。「しなければならないこと」に縛られて、見失うものは大きいかもしれません。

教育とは生きる力を育てるためのものだと人は言うけれど、生きる力は生きる喜びと切り離しては考えられないと思う。

社会の一員として行きていく上で、最低限知っておいた方がよい知識というものはあるけれど、その一定の知識を得ただけで社会の一員としてうまくやっていけるわけではないことは、日々起こる悲惨な事件を見れば明らかですよね。

「しなければならないこと」はちょっと置いておいて、「したいことをする」って、そんなに贅沢で我が侭なことなのかな........

もちろん、生きているうちには、「内面の充実」などということはとても言っていられない苦しい状況に陥ることもあるし、経済的なことを全く考えないわけにはいけないけど。

目標とか目的とか義務とかを一切忘れて、ただ楽しいから何かをする時間を私は大切にしたいです。


  1. 2006/05/27(土) 16:23:00|
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言うことを聞かない子

よく記事を読んでくださる方はお気づきと思いますが、私達夫婦は娘を「ちょっと変わった保育園」に入れ、現在は息子を「ちょっと変わった学校」に通わせています。

なにか特定の子育てのポリシーでも持っているのか、それともよっぽど変わり者の親なのか、と思われるかもしれませんが、正直に言いますと、ポリシーや趣味でそうしているというよりも、こうならざるを得なかったという感じです。私と夫の試行錯誤子育てに興味を持ってくださる方も少しはいらっしゃるようなので、どういう経緯でオルタナティヴ育児の方向に私達が進んで来たのかをお話しようと思います。

息子を妊娠中、活字中毒の私は育児に関する本をたくさん読みました。そして思ったことは、こんなことでした。
「きちんとした人間に育つよう、子どもは厳しく躾けよう」
「そのときによって子どもに対する態度を変えたりせずに、いつも一貫したやり方を貫こう」

でも。。。実際に子育てを初めてみたら、そんなふうに簡単にはいかないとわかって、がっくり。息子が幼児のときには、次から次へと難問にぶちあたり、「あ~、どうしたらいいんだろう」といつも悩んでいました。考えても考えても対策が思いつかず、そのうちにその時期が過ぎ、気がついてみると今度は新しい問題にぶつかっている。それを繰り返しているうちに「そうか。大抵の問題は時間が解決するのだな」ということがわかってきたけれど、そのまっただ中にあるときにはやはり悩むのでした。(そして今でも悩んでいます)

息子は「おとなしくて聞き分けのいい子」からはほど遠く、こちらのやって欲しくないことばかりやりました。はいはいができるようになってからは、家中を好き勝手に動き回り、ゴミ箱はあさるわ、植木鉢の土は食べるわ、ラジカセにバナナを突っ込むわのいたずらっ子。「子どもの手の届くところには何も置いておけない~」とこぼしたら、先輩お母さんに「触られるからといって物を片付けるのは逆効果。そのまま置いておいて、ダメと教える方がいい。だって全部片付けるなんてできないでしょ」と教えられて、「なるほどそうか」と思ったのですが、教わった通りにやってみても何も効果なし。

ダメよ~と優しく言っても全く反応しない。メッ、メッと恐い顔で睨みつけてもだめ、いたずらした手の甲をペチペチと叩いてもだめ。そのうち私が見ているところでやると怒られるとわかって、見ていない隙を狙ってやるように。結局、私が一日中ダメダメと怒り続けているという以外の結果は得られなかったのでした。

そのとき夫が言ったこと。
「よっぽどやりたいんだね~。いいじゃないか、いたずらしたって。やらせてあげようよ。物なんか壊れてもたいしたことじゃないさ。気が済むまでやれば、そのうち満足するだろう」
いたずらって、大人にとって都合が良くないからいたずらなのであって、子どもは単に好奇心からやっているだけ、悪いことをしようと思ってるわけじゃありません。そう考えたら少し気が楽になりました。

でも、やっぱり大変。息子は何でも「ジブンで」やりたい子でした。離乳食をスプーンで食べさせてやったのは、最初の数日だけ。私の手からスプーンをひったくって自分で食べようとする。自分の体よりも大きいベビーカーを自分で押すと言い張る。視界に入るものは何でも触ってみたくて、人がやっていることは何でもやってみたくて、じっとしていることができません。

意欲があるのはわかるけれど、混んでいる電車の切符売り場で子どもに自動販売機を使わせれば周囲に迷惑がかかるし、公共のものにやたらと触ってはまずいし、「あれは何、これは何」と興奮して大声を出されると静かにさせるのに苦労します。そんなわけで、私達は息子が人に迷惑をかけてしまいそうな場所は極力避けるようになり、どんどん田舎へ田舎へとシフトしてしまいました。

ほんとは、子どもをいろんな場所に慣れさせて、どんな場所でもそこにふさわしい行動を取れるように教えた方がいいのかもしれないなあ、とときどき思います。でも、ガミガミ小言を言っているとすごく消耗するので、つい楽な方に流れて、「野原で好きなだけ遊んでおいで」になってます。

こういう性格の息子にとって、学校という場所はこれまで「完全燃焼」できる場所ではありませんでした。まだドイツの幼稚園に通っていた頃、一時期、日本人学校の土曜日の補習授業に通わせていたことがありますが、すでにこのときにつまづいてしまいました。

迎えに行くと、毎週のように先生から、「おたくの息子さんは指示に従いません」と苦情を言われてしまう。
「なんで先生の言うことをちゃんと聞かないのっ!」と叱りつけ、息子は泣きながら帰宅。行くたびに先生と私の両方に怒られるので、もう行きたくないと訴えるようになりました。

何がそんなに嫌だったのか、息子が説明するには、「せっかくやっていることを無理にやめさせられる」ことだそう。土曜の補修授業というのは、基本的にいつか日本に帰る駐在員の子ども達のためにあり、日本に帰ってもすぐに授業についていかれるようなカリキュラムが組んであります。日本の子ども達が一週間かけて勉強することを土曜の一日でやろうとするので、どうしても「あれもこれも」と盛りだくさんになってしまい、幼稚部と言えども20分刻みくらいで「ますはひらがな、その次は縄跳び、その後は折り紙で。。。」というふうに予定が組まれていました。

これはしようがないことだと思うんですが、息子にとっては「せっかく楽しくお絵描きしていたのに、終わらないうちに、ハイ次は○○の時間ですと中断させられるのが嫌だ」となるようでした。「先生、ぼくまだ終わってないんだけど」と言うと、「続きはお家でやってね」と言われてしまい、なにもかもが「続きはお家で」で何一つ心ゆくまですることができない。欲求不満が募るだけで楽しくない。それで、補修校に通うのは挫折してしまった。

小学校に通うようになってからは、多少の分別もつき、「学校とはそういうもの」と、先生の指示に従って行動することを覚えはしましたが、相変わらず息子にとって学校とは「面白いことをいろいろ見せてくれるのに、思う存分にはやらせてもらえない場所」であったようです。

実際、息子を相手に授業をするというのはとても骨の折れる作業です。埼玉で来てもらっていたドイツ語の先生にも何度も苦情を言われましたし、私も何度か息子に英会話を教えようとして酷い目にあいました。何か一つ説明すると、
「じゃ、この場合は?あの場合は?こういうことも言えるんじゃない?もしこうだったら、その決まりは当てはまらないんじゃない?」と次から次へと展開して、もとのところからどんどん離れてしまい、こちらの予定通りには全然進まない。英会話をやっているはずが、気がついたら経済の仕組みについて議論。。。ということになったりする。

悪気があって大人を困らせるわけじゃない。やりたい、知りたい、動き回りたいという欲求を抑えることが難しい子なのです。

そんなわけで、ドイツに帰ってからの学校探し、かなり頭を悩ませました。息子の欲求がある程度満たされ、かつ、彼が学級の邪魔にならないでいられるような学校はないだろうか。そして見つかったのが今の学校です。

昨日、おとといと丸二日かけて、息子は「カエルの研究」をしてきました。先週の修学旅行のレポートを書くことになっているらしいのですが、内容は自由で、彼は森の中で遭遇したものすごく珍しい種類のカエルに興味を持って、それについて図書館でずっと調べていたらしいです。

「はあ~、疲れた。なんかあの学校に行くと、すごく疲れるなあ」
迎えに行くと、車に乗り込むなり、息子はこう言いました。
「それって、悪いこと?」
「いや、そうじゃなくてね。ぼけーっとしている時間がないんだよね。いつも真剣に何かやってるって感じ」
息子の学校には、お昼休み以外、決まった休み時間というのがありません。チャイムもなりません。必要に応じて休憩を取るんだそうです。

持て余していたエネルギーを使い果たして、心地よく疲れて帰って来ているのならいいなあと感じています。

  1. 2006/05/04(木) 20:42:00|
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漢字学習へのモチベーション

息子の日本の小学校生活もあと三週間を切りました。今まで使った国語や社会のノートを束にまとめながら、「よくここまで日本の小学生らしいことができるようになったものだな~」と感慨深いです。日本に来たときには、先生の言っていることすら理解不能の状態だったのにね。

10歳にもなれば本を読めるようになるし、お小遣いの計算もできるようになる。全く当たり前のことのようですが、当たり前じゃない。やらないことはできるようにはならないんですよね。もしかしたら日本語をまともに話せるようになっていなかった可能性もある息子が、今、私の子供の頃読んだ「怪盗ルパン全集」に嵌っている。これって、息子が「何かをやった結果」なんですよね。えらいえらい、よくやりました。

めでたし、めでたし。

・・・では終わらないところが悩ましいです。ドイツへ帰って、今度はドイツの小学生としてやっていく。まあ、それはなんとかなるでしょう。でも、日本語はどうなっちゃうんでしょうね。今では完全にネイティブの域に達していますから、喋られなくなるということは想像しにくいけれど、読み書きはやらなければ確実に忘れるでしょう。せっかく身につけた能力なのにもったいない。

ドイツの学校に行っても、日本語(国語)の学習だけは継続すればよい。言うは易しですが、モチベーションを保ち続けるのは難しそう。なにしろ息子は、努力、積み上げ、目標達成などというものとは無縁のお気楽者。楽しいことはいくらでもやるけれど、楽しくないことはやりません。

彼は漢字が苦手です。読解力その他は問題ないけど、漢字はコツコツ練習しなければならないので、ダメらしい。一年生の頃は「まあ、授業になんとかついていけるだけでもよしとしないと」と、漢字のことは気にも留めませんでした。二年生になったら、担任の先生に「お宅の息子さんは漢字がダメですね。もっと頑張らせてください」と言われるようになりましたが、「そんなことを言ってもらえるなんて、他の子と同じ土俵に立てたってことね」なんて単純に喜んでいました。

うちの子はドイツ語もやらなくちゃいけなくて、それだけでも他の子より負担が大きいし、そのうちドイツに帰るから漢字は必修ではなく、あくまでオプション。だからあまり「漢字、漢字!」と目尻を吊り上げたくない。漢字は普通にやって出来た分だけでいいかな~。そんな気持ちでした。だからあまり危機感を持っていなかった。

ところが、二年生の二学期が始まってまもなく、彼は一枚の怖ろしい答案を持ち帰ったのでした。一学期で習った漢字のまとめテスト。78問中、正解は17問!うわわっ。

私「はぁ、17点ですか~」
息子「うん!」
私「どうしてこんなに間違ったんだろうね?」
息子「そりゃー、しばらく書かなかったから忘れたんでしょう」
私「じゃ、思い出すにはどうしたらいいのかね?」
息子「また書けば思い出すと思うけどね」
私「そう思うならやりなさいよ」
息子「んー。いや、いいよ。ボク、漢字は別にいいの!」

いいのって・・・・

もしかして私が「漢字はほどほどでいいよオーラ」を出していたんでしょうか。だとしたら、彼の漢字嫌いは私のせい。

その二日後、息子の友達が家に遊びに来ました。成績の良い子です。

もっちゃん「おばさーん。ボクね、こないだの漢字テスト、二問しか間違わなかったの」
私「えっ。たったの二問だけ?すごいねー、もっちゃん!」
も「大介はどうだったの?」
私「大介は17点だったよ」
すると息子は、
息子「あわわわ、もっちゃん。この人の言うことね、信用しない方がいいよ。この人、よくウソつくから~」
も「そうなの?」
息子「もっちゃん、それよりオセロやろう、オセロっ!」
慌てて話題を代え、もっちゃんを引っ張って和室に引っ込んでしまいました。

その日、もっちゃんが帰った後。畳の上に漢字ドリルを広げて黙々と鉛筆を動かす少年が一人。
私「あれっ?漢字やってるのー?」
息子「そうだよ~。もう二度とあんな酷い点、取りたくないからね」
恥をかいて、やる気になったらしい。それ以来、漢字が得意とまではいかないけど、そこそこの点は取るように。

めでたし、めでたし。

じゃなくて!まだ続きがあるんです。さらなる展開は三年生の夏。夏休みに家族でドイツの夫の実家に帰省しました。息子は宿題の漢字練習帳を持参しました。ある朝、彼がいつものように課題をやっていると、夫の母が、「あら、何をやっているの?」と。

息子「宿題をやっているんだよ。おばあちゃん」
祖母「宿題だって?夏休みなのに宿題があるの?」
息子「そうだよ」
祖母「まー、信じられない。ドイツの学校では夏休みに宿題なんて出ないわよ。夏休みには子どもは元気に遊ぶもの。何故、勉強をやらせるのかしら」

それを聞いて、息子は自分のやっていることが急にバカバカしく思えてしまった。
「そうだよねー。なんで夏休みにこんなことやらなくちゃいけないんだろう」ノートを綴じてしまいました。

私(ヒソヒソ声で)「お義母さん。宿題の良し悪しは私もわからないんですけど~。でも、やっていかなくちゃ先生に叱られちゃうんです。一日せいぜい十五分あればできるんだから、たいしたことじゃないし、昨日まであの子は何の疑問も持たずにやっていたんですから、子どもの前では何も言わないで~」
義母(同じくヒソヒソ)「あらっ、ごめんなさい。そうね、私、余計なこと言っちゃったわね~。大変、大変」

アルファベットも日本の文字も両方書けるなんて凄いわね~。おばあちゃんもそうだったらいいのに。ほんとに羨ましいな~

慌ててフォローしていましたが、息子は「何故、休みの日に漢字なんて・・・」としばらくブツブツ言っていました。

モチベーションを高める雰囲気作りって重要なんですね。

う~ん、これからどうしたものか・・・・









  1. 2006/03/07(火) 09:59:56|
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日本にもモンテッソーリ一貫校が開校?

ちょっと忙しいので、簡単に。

さっき、こんな記事を発見しました。
0―12歳までの一貫教育、横浜の学校法人が計画

2007年には日本にもモンテッソーリ校が開校されるかもしれないんですね。

日本にはモンテッソーリメソッドを取り入れた幼稚園が既にたくさんありますが、小学校以降のモンテッソーリ教育については、まだ殆ど情報がないようです。

うちの子ども達もドイツに帰ったらモンテッソーリの一貫校に通う予定なので、日本での開校のニュース、ちょっと気になってしまいます。



  1. 2006/02/15(水) 16:21:45|
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